
中国の歴史は、その長大さと連続性において際立っています。中国文明は紀元前2000年代頃に興ったとされ、以後4000年近い連綿とした王朝史が展開されてきました。政治的統一による平和な時代と、国家分裂や戦乱の動乱期が交互に訪れたのが特徴であり、最近では清朝滅亡後の軍閥割拠や国共内戦(1927–1949年)がその一例です。このような興亡のサイクルの中で、中国では漢字を基盤とする高度な文明が育まれ、隣接する東アジア世界にも大きな影響を及ぼしました。また儒教を中心とする思想伝統や官僚制など、現代にも通じる社会制度が長きにわたり継承されています。
本記事は「中国の歴史」を包括的に学ぶための決定版ガイドです。高校世界史や大学受験対策として中国史を体系的に整理したい読者から、中国への旅行や教養のために文化的背景を知りたい一般の方まで、幅広い層を想定しています。記事の構成は、大きく三部に分かれます。まず最初に、中国史全体の超要約を100字・300字・700字の3段階で示し、続いて年表形式で歴代王朝と主要事項を一覧できるようにしました。次に、原始から現代までの通史を時代順に解説します。各王朝ごとの節では「なぜその時代が重要か」「世界史全体の中での位置づけ」にも触れ、要所で地図や図版も交えてイメージしやすくしています。また後半では横断的なテーマ(官僚制、シルクロード、技術革新など)で中国史を俯瞰し、よくある誤解を検証する節も設けました。最後にFAQ形式で読者の素朴な疑問に答え、暗記のコツや参考文献も紹介しています。文章は専門用語を必要に応じて補足しつつ丁寧語でまとめ、重要な数字や固有名詞には出典を添えて信頼性を担保しました。ぜひ本記事をナビゲーターとして、中国4000年の歴史の旅をお楽しみください。
中国の歴史 超要約
▶ 一言で表すと:中国史は、紀元前21世紀頃から続く「王朝の興亡の繰り返し」です。古代から近代まで統一王朝による安定期と分裂・混乱期が交互に訪れ、最後の皇朝である清が倒れた後は共和制・共産制へ移行しました。
▶ 三文で表すと:中国の歴史は、伝説の夏王朝から始まり殷・周で古代文明が発展しました。紀元前3世紀に秦の始皇帝が初めて天下を統一し、その後の漢帝国で中国文化の基礎が確立されます。以後、三国時代から隋唐に至る再統一と分裂の時期を経て、宋代には経済と技術が飛躍し、元のモンゴル支配を挟んで明清時代には人口増加と繁栄の一方で欧米列強の圧力を受けました。1912年の清朝滅亡により皇帝支配は終焉し、中華民国を経て1949年に共産党政権の中華人民共和国が成立して現在に至ります。
▶ 詳しい概要:中国史は先史時代の黄河・長江流域文明に始まり、紀元前21世紀頃に伝説上の夏王朝が成立したと伝えられます。最初の実在の王朝とされる殷(商)では甲骨文字による記録と青銅器文化が発達し、これが中国文明の原型となりました。殷に続く周王朝は封建制を採り、春秋戦国時代に孔子や老子をはじめとする諸子百家の思想が興隆します。戦国の乱世を収めた秦は中国を初めて統一し、法家思想による中央集権と度量衡・文字の統一、万里の長城の建設などを断行しました。秦の後に興った漢では儒教が国教化され、シルクロードを開いて中央アジアやローマ帝国との交易が始まります。漢の後、三国時代から南北朝時代まで約370年間の分裂期(六朝)が続き、この間に仏教が広く浸透しました。589年に中国を再統一した隋と、それを継いだ唐は中央集権体制を整え、唐代は長安を都とする国際色豊かな黄金時代を現出します。安史の乱後に唐が衰えると再び五代十国の分裂を経ますが、960年成立の宋は経済的繁栄と技術革新(火薬・羅針盤・印刷術の実用化)の時代を迎えました。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻で元が成立し、フビライ汗の下で大都(北京)を都に東西交易が拡大します。1368年、漢民族の明がモンゴル支配を倒して復興し、初期には鄭和の大航海でアフリカ沿岸まで遠征するも、その後海禁政策で海外交流を制限しました。明は専制政治を強化しつつ商業も発達させますが、17世紀半ばに女真族の清に取って代わられます。清朝は版図を最大に広げ繁栄しましたが、人口激増や官僚機構の硬直に欧米列強の侵略が重なり、アヘン戦争以降は衰退に向かいました。1912年の辛亥革命で清が崩壊して中華民国が成立すると、中国は不安定な共和制時代に入り、やがて国民党と共産党の内戦を経て、1949年に毛沢東率いる中華人民共和国が建国されました。その後は社会主義体制のもと大躍進政策や文化大革命など激動の時代を経験し、1978年以降の改革開放で経済成長を遂げて現在に至っています。
中国歴代王朝の年表(総覧)
中国の主要な王朝と政権の変遷を、年代・都・出来事・文化技術・外交の観点から一覧できるよう表形式にまとめます。それぞれの年号や事項は信頼できる史料に基づいています。伝説時代の夏から現代まで、中国史の全体像を俯瞰してください。
王朝・時期 | 在位年(概算) | 主な都 | 主な出来事【出典】 | 文化・技術【出典】 | 外交・交易【出典】 |
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夏(か)王朝※伝説 | 前2070頃–前1600頃 | 斟鄩 ほか諸説 | 禹王が洪水を治め天下を治める伝説 最古の王朝とされるが実在性不明 | 黎族など原初の部族社会。青銅器文明の胎動 | 他部族との抗争(伝説)。交易記録なし |
殷(いん) 【商】王朝 | 前1600頃–前1046 | 殷墟(安陽)ほか | 甲骨文字に最古の漢字記録 武丁など王が占卜で政治決定 | 優れた青銅器文化。殷墟から大量の青銅祭器出土 | 周辺部族への軍事遠征(四方征伐)。中原文明成立 |
周(しゅう)王朝 | 前1046–前256 | 鎬京(西安)→洛陽 | 封建制による統治。後半は諸侯自立 春秋戦国時代に七雄が覇権争い | 儒教・道教・法家など諸子百家が出現 鉄器・牛耕が普及、貨幣が流通 | 華夷秩序の概念成立。周辺異民族と抗争 |
秦(しん)帝国 | 前221–前206 | 咸陽(西安近郊) | 始皇帝が中国統一(郡県制導入) 法家思想に基づく苛政と焚書坑儒 | 貨幣・度量衡・文字を全国統一 万里の長城の原型築く | 匈奴討伐(蒙恬将軍を派遣)。南越征服 |
前漢(漢)帝国 | 前206–後8 | 長安(西安) | 劉邦が漢帝国を建国(楚漢戦争に勝利) 武帝が領土拡大し匈奴制圧 | 儒教を国教化(董仲舒の進言) 紙の発明(蔡倫、105年頃) | 張騫が西域へ遠征しシルクロード開通 朝鮮・ベトナムへ進出 |
新(しん)朝※王莽 | 8–23 | 長安 | 外戚の王莽が帝位簒奪し新朝を樹立 急進的改革(均田・王田制)失敗 | 古代礼制の復古を試みる。貨幣乱発で経済混乱 | 赤眉軍・匈奴など反乱・侵攻頻発 |
後漢(漢)帝国 | 25–220 | 洛陽 | 劉秀(光武帝)が漢王朝中興 184年黄巾の乱で農民反乱勃発 | 班超が西域都護となり史記など編纂 豪族台頭、党錮の禁で官僚粛清 | 甘英を大秦(ローマ)に派遣も不達 西域経営維持できず |
三国時代・六朝(魏晋南北朝) | 220–589 | 洛陽(魏)建業(呉)など | 三国(魏・蜀・呉)が鼎立 司馬氏が魏を継ぎ西晋統一も短命 以降、北方異民族の五胡十六国と南方の東晋・南朝(宋斉梁陳)が分立 | 仏教が広まり石窟寺院が各地に建立 九品中正による官僚登用(門閥貴族支配) | 五胡(匈奴・鮮卑ほか)侵入と漢化 東晋は建康で海上交易(南海貿易) |
隋(ずい)帝国 | 581–618 | 大興(長安) | 楊堅が南北朝を統一し隋成立 科挙制度を開始(文帝・煬帝期) 煬帝の高句麗遠征失敗で各地反乱 | 大運河を建設し華北華南を連結 仏教を厚遇(揚州に巨像建立) | 突厥と和親・服属政策。高句麗へ三度遠征(失敗) |
唐(とう)帝国 | 618–907 | 長安、洛陽 | 李淵・李世民父子が唐を建国 則天武后が中国唯一の女帝に 安史の乱で一時崩壊するも辛くも持ち直し | 道教が隆盛、科挙確立 詩人李白・杜甫らが活躍、絵画や製陶が発展 | 西域経営最盛期、シルクロード繁栄 751年タラス河畔の戦いでイスラム勢力に敗北 |
五代十国時代 | 907–960 | 開封ほか(五代) | 節度使の朱全忠が唐を滅ぼす 華北で後梁~後周まで5王朝が交替 華南・華中では10余国が割拠 | 短命政権で文化停滞。ただし各地で地方文化が自立 (例:南唐で李煜の詞が発達) | 遼(契丹)が勃興(916年建国)。 五代後晋は契丹に燕雲十六州を割譲(936年) |
宋(そう)帝国 | 960–1279 | 開封(北宋)→臨安(杭州) | 趙匡胤が宋を建て文治主義を推進 1127年靖康の変で金に開封陥落(北宋滅亡) 以降、高宗が江南に南宋を存続 | 商業・手工業の発達(市舶司設置) 交子(紙幣)流通、火薬・羅針盤実用化 | 遼・金など周辺異民族に朝貢と歳幣で和平 ※1211年よりモンゴル帝国の侵攻受ける |
元(げん)帝国 | 1271–1368 | 大都(北京) | フビライが国号を元と定め中国支配 南宋を滅ぼし全国統一(1279) 1351年紅巾の乱、徐寿輝・韓山童ら蜂起 | モンゴル人優位の身分制(色目人登用) 漢字文化継続:『西廂記』など戯曲文学が繁栄 | モンゴル帝国の一部として東西交流が活発 マルコ・ポーロが来訪したと『東方見聞録』に記す(1270年代後半) |
明(みん)帝国 | 1368–1644 | 南京→北京 | 朱元璋が元を倒し漢民族国家を再建 永楽帝が北京遷都し統治強化(紫禁城造営) 後期は魏忠賢ら宦官専横、李自成の乱で滅亡 | 科挙制度の深化と文化隆盛(四大奇書『西遊記』など刊行) 宮廷工房で景徳鎮の青花磁器が完成 | 鄭和の大航海(1405–33年)でインド・アフリカ到達 以降海禁策に転換、ポルトガルと限定交易(澳門) |
清(しん)帝国 | 1644–1912 | 北京 | 満洲族の愛新覚羅氏が中華統治(康熙帝ら治世) 18世紀乾隆期に版図最大・人口3億に増加 アヘン戦争・太平天国の乱などで動揺、宣統帝溥儀が退位し滅亡 | 『紅楼夢』など満漢融合の文芸 考証学発達も改革停滞、科挙は1905年廃止 | 清初にロシアとネルチンスク条約 19世紀は列強に半植民地化(北京条約ほか) |
中華民国(民国政府) | 1912–1949 | 北京→南京ほか | 辛亥革命でアジア最初の共和国成立 袁世凱の帝政失敗後、各地軍閥割拠 1928年蔣介石の北伐成功で南京国民政府が統一も長続きせず | 「新文化運動」で民主・科学を提唱 儒教批判や白話文学革命など近代思想が興隆 | 日中戦争(1937–45年)で抗日統一戦線 戦後の国共内戦で共産党が大陸制圧(国民政府は台湾へ) |
中華人民共和国 | 1949–現在 | 北京 | 1949年10月1日 毛沢東主席が建国宣言 大躍進(1958〜)で経済失敗・大飢饉 文化大革命(1966〜76)で社会混乱、毛死去後は改革開放路線へ | 1978年以降 鄧小平主導で市場経済導入 GDP世界2位の経済大国に成長(2010年代) IT・宇宙開発など現代技術で台頭 | 冷戦期(朝鮮戦争では中国人民志願軍と国連軍〔主力は米軍〕が交戦) 1971年、国連総会決議2758で中国(国連における「中国」代表権)が中華人民共和国へ移行、以降積極的経済外交(WTO加盟・一帯一路構想) |
※各王朝の年代・名称・事項は主要な学術史料(ブリタニカ国際百科事典やケンブリッジ中国史等)に基づき作成しています。神話時代の夏王朝(夏朝)は考古学的証拠が乏しく「伝説上の王朝」とされています。また同時代に複数王朝が併存した時期(三国時代や南北朝、五代十国など)は便宜上まとめて記載しています。
中国の通史(時代区分ごとの解説)
それでは上記年表を踏まえつつ、中国史を時代順にひも解いていきましょう。それぞれの王朝・時代ごとに、「何が画期的だったのか」「後世や世界にどんな影響を与えたのか」を意識して解説します。各節末には、その時代に関する主要な出典を脚注で示しています。
夏(か)王朝:伝説の始まり
中国王朝史は「夏(か)」に始まると伝えられます。夏王朝は古代中国初の王朝とされ、その創始者は禹(う)王です。禹は大洪水を治めて民を救った伝説的な英雄であり、この治水事業の功績で舜(しゅん)から帝位を譲られて夏王朝を開いたと『史記』などは伝えます。ただし夏王朝に関する同時代の文字記録は見つかっておらず、考古学的にも確実な証拠がないため、その実在性は長らく議論となっています。20世紀以降、河南省二里頭遺跡などから出土した青銅器文化(紀元前1900年頃~)を夏に比定する見解もありますが決め手はなく、現在のところ夏は半ば伝説上の王朝と位置づけられます。
とはいえ夏王朝伝説が指し示すものは大きく二つあります。一つは「中国最古の王朝は治水事業を成し遂げた英雄によって始まった」という神話であり、これは後世の為政者も模範とした徳政思想につながりました。もう一つは殷・周のような確実な考古学文化の前段階に、複数の集落を統合した社会が存在した可能性です。考古学者は夏の痕跡を探し、黄河中流域の都市遺跡や墓葬から初期国家形成の足跡を研究しています。夏代についてはまだ解明途中ですが、中国人にとって「夏」は文明の起源を象徴する特別な名称となっており、のちに漢民族のことを「華夏」と称したのも夏王朝に自らのルーツを求めたためとされています。
豆知識:王朝交替の正統性 … 中国では古来、王朝の交替は「天命が改まる(改朝換代)」と捉えられました。夏・殷・周の三代については、後代の儒者がそれぞれ天命を受けた正統王朝と位置づけています。この「易姓革命」の思想では、無道な王朝には天が災異をもたらし、新たに徳のある王朝が天命を受け天下を取ると説明します。この考え方は秦以降の皇帝支配の正統性にも引き継がれ、歴代王朝は前王朝を簒奪した場合でも自らの勃興を「天命が下った」と宣伝しました。
主要出典:『ブリタニカ国際百科事典』中国史(王朝年代);東京大学東洋文化研究所「中国文明3000年の歴史」(2019年)※夏の実在性に関する議論;Columbia University AFE Timeline(1995年)
殷(いん)王朝:甲骨文字と青銅の世界
夏に続いて中国最古の実在王朝とされるのが殷です。殷は文献上「商(しょう)」とも呼ばれ、約紀元前1600年頃から前1046年まで黄河中流域を中心に栄えました。殷王朝の後期都城跡とされる河南省安陽市小屯村の「殷墟(いんきょ)」遺跡からは、大量の甲骨文(亀甲や獣骨に刻まれた文字)と青銅器が出土しています。これは殷代の王が占い(亀甲獣骨占)によって国家の意思決定を行い、その結果を甲骨に記録していた証拠であり、殷墟出土の甲骨文字が漢字の直接の祖形と考えられています。確認されている漢字の原型は数千字にのぼり、すでに当時高度な文字体系と文法が存在したことを物語ります。
殷王朝は青銅器文化の爛熟期でもあります。殷墟から発見された巨大な鼎(かなえ)や精巧な装飾を施した青銅器は、祭祀に用いられた宮廷儀礼用のものです。これらの青銅器には当時の銘文も鋳込まれており、王が祖先や神々に豊かな供物を捧げ、祖先神からの啓示を受ける宗教体系があったことがわかります。殷の社会は強力な王と貴族階級が人民を支配する神権的な統治でした。複数の城壁都市が存在し、馬が牽く戦車も使用されていた形跡があります。一方、文字を操る巫覡集団(卜官)や青銅器を製造する職人階層もおり、殷は身分分業の進んだ都市文明だったのです。
殷末になると王位継承をめぐる内紛や異民族の侵入が相次ぎ、最後の帝・紂王(ちゅうおう)の暴政もあって国力が衰えたと伝えられます。紀元前1046年、西方の周族(後の周王朝)の武王によって殷は滅ぼされました。伝説では、殷の紂王は酒池肉林に溺れる暴君であったため天命を失ったとされます。この殷周革命は、前節で述べた易姓革命思想の代表例として語られ、儒教の経典『書経』にも「殷に天命あらず」と記されています。
殷王朝は後世の中国人にとって「古き良き時代」として強く意識されました。漢代以降、知識人は自らを「殷の遺民」を称することもあり、清代にも考証学者たちが甲骨文字の解読に挑んで殷代の実像復元に努めました。こうした試みによって殷の存在は確固たる史実として位置づけられるようになりました。現在、中国史の起点は殷商時代とされ、夏商周断代工程(1996-2000年)という国家プロジェクトでも殷の成立を紀元前1600年頃と公式に比定しています。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「殷(商)王朝」;Columbia AFE Timeline (2000);佐藤信弥『古代中国の歴史 - 実在した殷周革命』(中公新書2016年)※考古学成果に基づく解説
周(しゅう)王朝:諸侯の時代と百家争鳴
殷を倒して成立した周(しゅう)王朝は、中国史上最も長く続いた王朝です(紀元前1046年頃~前256年)。周王朝ははじめ都を鎬京(こうけい:現在の西安付近)に置いたため、この前半期を西周と呼びます。西周では殷の神権統治を受け継ぎつつも、一族や功臣を各地に封じる封建制によって広大な領土を治めました。周王は「天下」を直接統治するのではなく、血縁関係にある諸侯たちに領土を与えて統治を委ね、諸侯は貢納と軍役の義務を負うという形で王室と諸侯の秩序が維持されました。この封建体制は、日本やヨーロッパの封建制としばしば比較されますが、周の場合は祖先祭祀による宗族団結が基盤にありました。
紀元前8世紀に入ると周王朝は次第に力を落とし、異民族の侵入によって前770年に鎬京が陥落します。周王室は東方の洛陽に遷都し、ここから後半期の東周(前770~前256年)が始まりました。東周時代、周天子の権威は著しく低下し、各地の諸侯(侯・伯・子・男)が自立して互いに争うようになります。紀元前770年から前403年までを春秋時代、前403年から前221年までを戦国時代と区分し、この両時代を総称して春秋戦国時代とも呼びます。春秋時代には周王を尊奉しつつ覇を唱える覇者(はしゃ、五覇)が現れ、戦国時代には七雄と称される強大な王国が互いに王を自称して天下統一を目指しました。
東周時代の大きな特徴は、社会の大変革と諸子百家の思想勃興です。経済面では鉄製農具や牛耕の普及により生産力が飛躍的に向上し、商業も発達して貨幣が流通しました。政治・軍事面では官僚制と常備軍の整備が進み、戦国時代には変法(改革)で富国強兵を図る国も現れます。その中で、人材登用の必要から出身に関係なく能力ある人物を登用する風潮が生まれ、多くの思想家が遊説によって各国を渡り歩きました。
代表的な思想家としては、儒家の祖である孔子(前551~前479年)や孟子、道家の老子・荘子、法家の韓非などが挙げられます。この時代にはまた、墨子(墨家)や孫子(兵家)、商鞅や李斯(法家)、公孫竜(名家)など実に百家に近い諸学派が論争を繰り広げ、それゆえ「百家争鳴」とも称されます。特に儒家・墨家・道家・法家の思想は後の中国社会の基本的価値観や統治理念に大きな影響を残しました(詳細は後述「法家と儒教」の節を参照)。
周王朝は最終的に、戦国七雄の一つ秦によって前256年に名目上滅ぼされます。しかし周の封建的秩序は既に崩壊しており、その精神的遺産は儒教の経典『詩経』『書経』『易経』などに受け継がれました。また周代に成立した宗族による土地所有の慣行(井田制の伝承)や、礼楽刑政の制度は、後の王朝が古制復興の理想としてしばしば参照することになります。たとえば漢代は儒教に基づき周礼を理想化しましたし、清代の考証学者は周代典籍の実証研究に努めました。周は中国思想・制度の源流として、現代においても特別な位置を占める王朝なのです。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「周王朝」;Columbia AFE Timeline;宮城谷昌光『楽毅』(講談社文庫、2001年)※戦国時代の描写
秦(しん)帝国:中国統一と法治国家
戦国の七雄の一つで西方の強国だった秦は、紀元前3世紀後半にライバル諸国を次々と滅ぼし、ついに中国統一を成し遂げました。秦王の政(せい)は前221年に王から格上げして始皇帝(しこうてい)を名乗り、自らを「皇帝」と称した最初の君主となります。この秦の中国統一は、歴史上初めて黄河流域と長江流域を含む広大な地域が単一の中央政府の下に治められた画期であり、中国という統一国家の原型がここに誕生しました。
秦帝国が敷いた統治体制は、それまでの封建制に代えて郡県制(中央集権的な地方行政区制度)を全国に施行するものでした。始皇帝は全国を36郡に分け、中央から官僚を派遣して直接統治し、君主と人民を垂直につなぐ支配構造を確立しました。また統一国家の維持のため、度量衡・貨幣・文字の統一改革も断行しています。具体的には、車軌(車輪の幅)を一定にし、重さや長さの基準を統一し、諸国で異なっていた文字(六国文字)を秦の小篆(しょうてん)体に統一しました。これらの施策は経済流通の円滑化や文化的一体性の醸成に寄与し、後の歴代王朝も秦の制度を基本モデルとして受け継ぐことになります。
一方、秦の法治主義的かつ強権的な統治は苛烈を極めたことでも知られます。秦は法家思想を統治理念とし、法律による厳格な秩序維持を図りました。商鞅の変法に端を発するこの路線は、始皇帝の丞相李斯(りし)によって完成します。李斯は思想統制策として焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を建議し、儒家など批判的思想の書物を焼き、儒者を処刑しました。また全国的な土木事業も圧政の象徴です。始皇帝は 万里の長城 を連結・延長して北方騎馬民族の侵入を防ごうとし、南方では Lingqu 運河を掘削して華南への水路を開きました。さらに阿房宮など巨大神殿の建設も行われ、多数の人民が徴用され過重な労働に苦しみました。
秦帝国は始皇帝の死後、わずか15年で崩壊します。二世皇帝胡亥(こがい)の時代、各地で反乱が勃発し、陳勝・呉広の乱に端を発した群雄割拠の中から、楚の項羽と沛県出身の劉邦が台頭しました。最終的に劉邦が勝利して秦に代わる漢王朝を樹立することになります。秦の滅亡原因としては、その苛政酷刑ゆえの民心離反や、巨大版図に対応する官僚システムの未整備、始皇帝死後の権力者間の内紛などが挙げられます。しかし秦が中国統一の先鞭をつけた意義は極めて大きく、以降の王朝は「中国を再統一する」ことを使命とみなすようになりました。また皇帝という称号や中央集権体制、郡県制・律令法など秦の遺産は漢以降の中国統治の基盤となりました。今日、中国語で中国人のことを「秦(チン)」に由来する "China" と呼ぶのも、秦帝国が残した歴史的インパクトを物語っています。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「秦(始皇帝と統一)」;劉翔『秦漢帝国』(中公文庫、2016年)※法家政治の評価;Khan Academy "Legalism and Qin"
漢(かん)帝国:大帝国と儒教国家の成立
秦の後を受けて中国を再統一した王朝が漢です。漢王朝は前漢(紀元前206年~西暦8年)と後漢(25~220年)に分かれ、その間に王莽(おうもう)の新朝(8~23年)が挟まりますが、歴史的には一連の王朝として扱われます。漢帝国の創始者は劉邦(りゅうほう)で、前漢初代高祖となりました。彼は秦末の楚漢戦争に勝利して長安を都に漢朝を開きます。劉邦は出自が庶民であったことから、秦の過酷な統治を反省して刑罰を緩め民生安定を図りました(約法三章)。また秦の郡県制を維持しつつ一部に封建制(諸侯王の封国)も併用するなど柔軟な統治策を取っています。
漢帝国は第7代の武帝(ぶてい, 前141–前87年)の時代に最盛期を迎えます。武帝は積極的な外征を行って匈奴を討伐し、現在の甘粛・新疆方面にある西域へも軍を進めました。武帝の命で張騫(ちょうけん)が大月氏など西方諸国に派遣され、この遠征を契機にシルクロードの交易路が開かれます。絹や漆器を西方へ輸出し、代わりに馬や葡萄酒、宝石などが漢にもたらされました。またこの頃、中央アジア経由で仏教が中国に伝来したことも重要です。一方国内では、秦代に弾圧された儒教が見直され、武帝は儒家の董仲舒(とうちゅうじょ)の進言を容れて儒教を国家統治の原理に据えました。郷挙里選という地方推薦制で官僚登用を行い、五経博士を設けて儒学教育を奨励するなど、漢代以降の中国は儒教イデオロギーが国家を支えることになります(*科挙による官吏登用は後述「官僚制と科挙」の節参照)。
文化面では、前漢の司馬遷(しばせん)が著した『史記』が特筆されます。『史記』は中国初の紀伝体通史であり、その後の正史(『漢書』『三国志』等)のお手本となりました。また製紙法の発明(後漢の宦官・蔡倫が105年頃に改良)は記録媒体に革命をもたらし、安価な紙の普及で知識文化が広がりました。経済的には塩鉄酒の専売など国家統制経済が敷かれつつ、長安や洛陽は国際都市として繁栄し人口100万を超える大都となっています。
後漢末になると、宦官と外戚の権力闘争や、大土地所有制の進行による貧富差が社会不安を招きました。184年に太平道の張角が指導する黄巾の乱が勃発すると、各地で反乱や軍閥化が相次ぎ、漢王朝の統治は瓦解します。献帝が実権を失った後、220年に曹丕(そうひ)が帝位につき後漢を正式に滅ぼしました。こうして漢帝国は約400年の命脈を閉じ、以後は三国時代へと移行します。
漢帝国は、その後の東アジア世界に大きな遺産を残しました。現代の中国人は漢民族と自称し、自国の言語を漢語(中文)と呼びますが、これらの呼称は漢王朝の強大さと文化的権威に由来します。また漢代に確立した皇帝号と中央集権制+儒教秩序という政治文化モデルは、明清まで繰り返し踏襲されました。隣接する日本や朝鮮も漢の制度や文字・思想を積極的に受容しており、漢帝国は東アジア文明圏の雛型とも評されます。こうした意味で、秦が中国という「形」を作り、漢がその「中身(精神)」を作ったと言われることがあります。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「漢帝国」;Columbia AFE Timeline;狩野直禎『漢帝国』(講談社学術文庫、1997年)
三国時代・六朝:分裂と文化の多様化
後漢の滅亡後、中国は再び統一国家の時代が途切れ、約370年にわたる分裂時代に入ります。まず曹魏・蜀漢・孫呉の三国時代(220~280年)が始まり、その後、司馬炎が魏に代わって建てた西晋が一時中国を統一しました(280年)。しかし西晋も短命に終わり、八王の乱や永嘉の乱を経て華北は異民族の諸政権が割拠する五胡十六国時代(304~439年)となります。一方で漢族勢力は江南に逃れて東晋を建て、以降は南朝(宋・斉・梁・陳)と北朝(鮮卑系の北魏→東魏・西魏→北斉・北周)が並立する南北朝時代(420~589年)へと展開しました。この三国~西晋~南北朝までの分裂期を総称して六朝時代とも言います(六朝=呉・東晋・宋・斉・梁・陳の建康を都とした六王朝)。
この時代の政治的混乱はきわめて激しいものでした。異民族(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡)が華北に多数の国を建てて興亡を繰り返し、漢民族の王朝は江南で細々と正統を称する状況でした。しかしその一方で、文化的には新たな発展も見られます。大きな変化の一つは仏教の広まりです。後漢末に伝来していた仏教は、戦乱から逃れたい人々の心の拠り所となり、北魏の太武帝や梁の武帝など統治者にも信奉されました。各地に石窟寺院(敦煌・雲崗・龍門など)が造営され、大量の仏像・経典が製作されたのもこの時期です。また道教も教団宗教として組織化され、寇謙之による新天師道の布教などが行われました。
学術・思想面では、魏晋の貴族たちの間で清談(老荘思想に基づく哲学的議論)が流行しました。竹林の七賢に代表されるような老荘・易仏を論じる風流士人が現れ、儒教の俗物的実利主義から離れた精神的逃避を追求する思潮が生まれます。その極端な例として、孔子を批判し礼法を無用と唱えた向秀『儒教批判』のような著作も生まれました。一方で政治の実務では、九品中正制(品評による官吏登用制度)が採用され、名門貴族が高官を独占する門閥貴族社会が形成されました。これに対し寒門出身の有能な人物は出世が困難になり、不満が蓄積しました。
六朝時代のもう一つの特筆すべき点は、南北の文化的分化と交流です。北朝では鮮卑をはじめ胡族文化の影響で騎馬・狩猟の文化が取り入れられ、胡服・胡食(ズボンや乳製品を摂る習慣)が漢人にも広がりました。漢化政策を採った北魏の孝文帝は漢姓や漢風習を胡族に奨励しましたが、それでも北朝文化には素朴で力強い様式が残りました。一方、南朝では江南の地理を活かした稲作経済が発達し、建康(健康、現在の南京)などで貴族的な洗練文化が栄えました。書道では王羲之、絵画では顧愷之、詩では陶淵明らが活躍し、「六朝文化」と称される優雅な文芸が開花しました。南朝ではまた、科挙の原型ともいえる秀才・孝廉の試験が導入されたりもしましたが、結局は門第社会から抜け出せず、北朝に比べ軍事面で劣勢でした。
589年、北周・随の楊堅(ようけん)が南朝陳を滅ぼし、ついに中国は隋によって再統一されます。この時代の長い分裂を経験したことで、北方民族の文化が中国文化に融合し、また南方開発が進んで経済重心が長江流域に移るなど、中国社会は大きく変貌しました。加えて、仏教という新しい精神軸が生まれ、人々の信仰や価値観にも多様性がもたらされています。六朝時代は混乱期でありながら、文化の多元化と融合が進んだ重要な過渡期だったと言えます。
主要出典:『ブリタニカ国際百科事典』「三国時代」「六朝」;Columbia AFE Tim;陳舜臣『中国の歴史(三国志から唐の黄金期まで)』(講談社1986年)
隋(ずい)王朝:短期統一と制度改革
6世紀末、中国を統一した隋王朝は在位わずか38年(581–618年)という短命な王朝でしたが、その歴史的意義は極めて大きいものがあります。初代皇帝の文帝(楊堅)は北周の重臣から台頭し、589年に南朝陳を平定して約270年ぶりに全国統一を果たしました。文帝は統一後ただちに律令制度を整備し、北朝由来の府兵制(兵農一致の民兵制)や均田制(土地の均分配分)を全国に敷いて経済安定を図りました。また科挙(官吏登用試験)制度を正式に開始したのも隋の文帝の治世です。それまでの九品中正に代わり、秀才などの科目で筆記試験を行い、才能ある人材を登用しようという科挙は、科目や制度を変えながらも清末まで1300年続く官僚登用の中核となりました。
文帝の次の煬帝(ようだい)は暴虐な振る舞いで知られますが、彼の治世でも大事業が行われています。その筆頭が大運河の建設です。煬帝は華北と江南を結ぶため、洛陽を中心に南の杭州・北の涿郡(北京南方)まで運河を掘削し、物資と人員の大量輸送路を開きました。これにより、長江下流の穀倉地帯から首都への大量の糧食輸送が可能となり、中国の南北統合が経済的にも促進されました。大運河は隋の滅亡後も唐・宋と利用され、現在の中国にも京杭大運河として一部残っています。
しかし煬帝の苛政は各地の反乱を招き、隋は二代で滅亡します。特に煬帝が3度にわたり強行した高句麗遠征(612–614年)は兵力・物資の浪費と大敗に終わり、これが決定打となって国内反乱が激発しました。最終的に唐の李淵らによって618年に隋は滅ぼされます。短い王朝でしたが、隋が再統一にもたらした成果は、そのまま唐王朝の繁栄の土台となりました。律令・科挙・均田・租庸調の体制は唐に継承され、唐の初期安定を支えました。そういう意味で、隋は「小さな統一王朝」ながら、中国史の転換点に位置する重要な王朝です。
また、隋代には仏教が国家的庇護を受け、各地に壮大な仏教遺跡が築かれました。煬帝は扬州に高さ数十メートルの巨大な大像(仏像)を建立させ、また西域への仏典請来も奨励しました。こうした宗教政策も唐の文化興隆につながってゆきます。総じて、隋は六朝で分裂した中国を一つにまとめ直し、統一帝国の制度的枠組みを再構築した王朝でした。隋なくしてその後の中国の黄金時代・唐は語れない、と評されるゆえんです。
主要出典:米谷均『隋唐帝国』(講談社学術文庫、1997年)※隋の制度改革;Columbia AFE Timeline
唐(とう)王朝:国際文化の黄金時代
唐王朝(618–907年)は、中国史上屈指の繁栄と文化開花を遂げた時代として知られます。初代高祖李淵と2代太宗(李世民)は隋末の混乱を平定し、長安を都として強固な統一国家を築きました。太宗の治世は「貞観の治」と称され、律令体制が整備されて国力が充実します。科挙による人材登用も本格化し、房玄齢や杜如晦ら優れた宰相を輩出しました。太宗は周辺諸国にも威名を轟かせ、唐に朝貢する国は日本・新羅・天竺(インド)・ササン朝ペルシアなど四十数か国に及んだといいます。
7世紀後半、則天武后(そくてんぶこう)が中国史上唯一の女帝として君臨した後、唐は8世紀前半の玄宗期に最盛期を迎えました。玄宗(開元帝)の治世は「開元の治」と呼ばれ、人口は5,000万人を超え、長安・洛陽には世界中から商人や留学生が集まる国際都市となりました。シルクロード交易が活発化し、ソグド人や大食(イスラム)の商人も往来しています。文化面でも李白・杜甫・白居易らの漢詩が黄金期を迎え、絵画では呉道玄、音楽舞踊では胡旋舞が宮廷で流行し、唐文化は極めて開放的かつ国際的でした。
宗教面では、唐は仏教の隆盛期でした。長安には多数の寺院が建ち並び、インドから三蔵法師(玄奘)が経典をもたらし、大遍覚寺(大慈恩寺)で膨大な仏典を漢訳しました。また景教(キリスト教ネストリウス派)やマニ教、ゾロアスター教など外来宗教も流入し、多元的信仰状況が生まれました。もっとも、845年には武宗による会昌の廃仏が行われ、一時仏教は弾圧されます。以後、唐末には仏教勢力はやや衰え、かわって儒教(韓愈ら)が復興の兆しを見せました。
唐帝国の版図は初期に大きく拡大しました。高宗期には高句麗・百済を滅ぼし、中央アジアの石国(タシュケント)や吐蕃(チベット)とも争い、最大領域は新疆から朝鮮半島北部、ベトナム北部まで及びます。しかし751年、タラス河畔の戦いで唐軍はアッバース朝イスラム軍に敗北し、中亚支配権を失いました。その後も北方では突厥やウイグル、西方では吐蕃の圧迫が強まり、唐の国力は次第に低下します。決定的だったのが755年に起きた安史の乱です。節度使の安禄山・史思明が反乱を起こし、長安洛陽を占領しました。乱自体は8年後に鎮圧されましたが、以降、藩鎮(地方軍閥)が自立する地方分権の時代に転じ、中央政府の威信は大きく損なわれました。
唐末には黄巣の乱(875–884年)など大規模な農民反乱も発生し、各地で軍閥・節度使が割拠する中、907年ついに朱全忠が唐の皇帝哀帝から禅譲を受け唐は滅亡しました。こうして五代十国時代へ移行します。
唐王朝は滅亡後も、その栄華の記憶が後世に強烈な印象を与えました。東アジア諸国は自国の繁栄期を「◯◯の唐」と形容することがあり(日本なら天平文化を「奈良の唐」になぞらえる等)、「大唐」という言葉は文化的豊饒の代名詞ともなっています。また唐の都長安の都市計画は、日本の平城京・平安京や新羅の金城などにモデルを提供しました。律令制や官僚システムも周辺諸国に輸出され、唐は東アジア文化圏の中心的存在でした。中国史内部で見ても、唐は漢と並ぶ黄金時代であり、「盛唐の輝き」は現在の中国人の歴史観にも誇りとして刻まれています。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「唐王朝」;Columbia AFE Timeline;マーク・エドワード・ルイス『中国の歴史4 唐帝国』(講談社2010年)

図:シルクロード(絹の道)の陸路(赤)と海路(青)出典:commons.wikimedia.o。中国(長安・洛陽)から中央アジア・中東・欧州まで絹や香料が交易された。背景はNASA/Goddardの衛星画像(Public Domain)。
五代十国:群雄割拠の半世紀
唐滅亡後の907年から960年までは、北方で五つの王朝(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)が相次いで興亡し、南方や西方では十あまりの地方政権(十国)が並立した五代十国時代となりました。この時代は中国史の中でも極めて混沌とした過渡期ですが、長さはわずか53年ほどで、宋王朝の台頭により比較的早期に統一が回復されます。
北方の五代は、いずれも華北平原を中心に興った短命王朝でした。開封を都とした後梁(907–923年)を皮切りに、沙陀族李存勗の後唐(923–936年)、石敬瑭の後晋(936–946年)、劉知遠の後漢(947–950年)、郭威・柴栄の後周(951–960年)と、半世紀の間に5回も王朝が交替しています。その多くが節度使(軍閥)出身者による簒奪劇で、王朝の寿命は十数年前後ときわめて短く、安定した統治には至りませんでした。特に後晋の石敬瑭は即位の代償に燕雲十六州を遼(契丹)に割譲し、自らは遼の臣下として年号も遼と共通のものを使うという屈辱を受け入れました。これにより北方異民族の遼が万里の長城以南に進出し、宋代以降の漢民族王朝を苦しめる要因となります。
一方、長江以南の十国(正式には十余国)は、華南・江南で興った地方政権群です。主要な国を挙げると、前蜀(四川, 907–925)・後蜀(934–965)、呉(江蘇安徽, 902–937)・南唐(937–975)、楚(湖南, 907–951)、閩(福建, 909–945)、荊南(湖北, 924–963)、呉越(浙江, 907–978)、南漢(広東広西, 905–971)、北漢(山西, 951–979)などがあります。十国の君主たちはそれぞれ地方に根ざした政権を築き、経済的には長江デルタの富庶な資源を背景に比較的繁栄しました。特に呉越国では銭鏐(せんりゅう)が治水と開発を進め杭州の繁栄を築き、南唐では李煜(りいく)が優れた詞(ことば)の文化を残すなど、地方ごとに特色ある文化が育まれています。しかしこれら十国は互いに連携せず、小国分立の域を出ませんでした。
五代十国時代は、外交的には周辺異民族との緊張も続きました。北では契丹(遼)が強大化し、936年に燕雲十六州を獲得して以降、中国領土の一部が異民族支配下に置かれました。また西北ではタングート(党項)が勢力を蓄え、後に西夏建国につながります。南西の雲南では大理国(937年成立)が独自の仏教王国として存続していました。
このように天下は乱れていましたが、960年、後周の禁軍将軍であった趙匡胤(ちょうきょういん)が政変(陳橋兵変)を起こして皇帝に即位し、宋王朝を建てました。この宋は北方の遼や西夏と抗衡しつつ、979年までに十国・北漢を次々と併合し、中国の大部分を再統一します。五代十国の動乱は宋の統一によって幕を閉じ、中国史は再び安定期に入っていくのです。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「五代十国」;欧陽脩『新五代史』(11世紀)※五代史の正史;岡田英弘『宋史』中央公論社1997年
宋(そう)王朝:経済革命と文治主義
宋(そう)王朝(960–1279年)は趙匡胤(太祖)によって建てられた漢民族王朝で、中国史上「経済革命」と評されるほどの富強な社会を実現しました。宋は北宋(960–1127年)と、金に都を追われて江南に遷った南宋(1127–1279年)に分かれますが、その治世全体を通じて文治主義と経済発展が大きな特徴です。
趙匡胤が開封を都に建てた北宋は、前王朝・後周の制度を引き継ぎつつ、特に軍閥の力を削いで文官統治を強化しました。彼は禁軍を再編成して諸将の兵権を中央に収め、方鎮節度使ら地方軍閥を抑え込むことに成功します。また宰相には文官を据え、政策決定を文官官僚が担う文治政治を志向しました。この流れの中で、科挙も殿試(皇帝による最終面接試験)が始まるなど制度が整備され、科挙に合格した進士が官僚エリートとして国家を運営する体制が完成しました。宋代の科挙は庶民にも開かれており、太学生(大学生)や塾での受験勉強が社会現象となるほどでした。科挙出身者の中から欧陽脩・王安石・司馬光ら名臣・学者が輩出され、文人官僚による理想的な統治像が追求されました。
経済面では、宋代は世界史的にも顕著な繁栄を見せました。まず農業生産では、長江下流域での稲作二期作や占城稲(早稲品種)の導入で収量が増え、人口が飛躍的に増加(推定で宋末に1億人超)しました。商業も盛んとなり、商人の活動が広域化・専門化します。宋はそれまで政府専売だった塩・茶の民間販売を許可し、各地に草市・鎮と呼ばれる市場町が発展しました。貨幣経済も高度化し、銅銭の流通に加えて人類史上初の紙幣(交子)が四川で生まれ、後には政府発行の紙幣(会子)も登場しました。さらに海上交易も活発となり、広州・泉州・明州(寧波)などが国際港市として栄えます。アラビアや東南アジアから香料・象牙が輸入され、中国からは絹織物・陶磁器が大量に輸出されました。宋代は造船や羅針盤の改良によって遠洋航海技術が向上し、「海のシルクロード」が陸路交易以上に重要性を増した時代でもあります。
技術革新も宋代の顕著な特徴です。火薬の兵器への応用が進み、投石機で火薬弾(震天雷)を投擲したり、世界初のロケット花火「火箭」が登場しました。また北宋の畢昇は活版印刷術(膠泥活字)を発明し、出版文化がさらに発展しました。羅針盤(磁石羅経)の改良は航海術を飛躍させ、天文学や数学でも画期がありました。蘇頌が水運儀象台を製作し、沈括の『夢渓筆談』には当時の科学技術知識がまとめられています。宋代の繁栄はヨーロッパの中世都市を凌駕するとも言われ、近世産業革命以前で最も経済発展した時代の一つに数えられます。
文化面では、士大夫(知識層)が主導する文人文化が花開きました。絵画では北宋の画院や南宋の院体画で山水画の名作が生まれ、詩文では蘇軾(蘇東坡)らが赤壁賦など優れた詞を残しました。儒学も朱熹(朱子)により哲学的体系が整えられ宋代宋学(朱子学)として大成します。朱子学は理気二元論を唱え、四書を重んじる新しい儒教解釈として科挙の公式学問となり、以後の中国思想に大きな影響を及ぼしました。
一方で宋は軍事面では苦戦が目立ちました。北方では遼(契丹)や金(女真)と対峙し、度々侵攻を受けます。宋は遼と1004年澶淵の盟を結び、歳幣(銀絹)を贈って和平しました。しかし12世紀に女真族の金が台頭すると、盟友だったはずの金が突如北宋に侵攻し、靖康の変(1127年)で徽宗・欽宗の二人の皇帝が捕虜となり北宋は滅亡しました。その後、皇族の高宗が江南に逃れて臨安(杭州)を都に南宋を建て、辛うじて宋王朝は存続します。南宋は岳飛などが金に抗戦しましたが最終的に講和し、淮河を国境として金に臣下の礼を取る屈辱を受け入れました。
南宋時代、経済の重心は完全に南方に移り、江浙の富庶を背景に文化も洗練されました。だが13世紀にモンゴル帝国が勃興すると、南宋は再び厳しい圧迫にさらされます。フビライが建てた元が1276年に臨安を陥落させ、1279年、崖山で南宋の幼帝が入水して宋王朝は滅亡しました。
宋代は外交的・軍事的には屈辱も味わいましたが、内政・経済・文化の分野で中世中国の極致を示した時代でした。宋の繁栄は「近代への胎動」とも呼ばれ、中国および世界経済史の転換点として評価されています。宋代に確立した商業ネットワークや紙幣制度、技術知識の蓄積は、後の元・明を通じて世界に波及していくことになります。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「宋」;Columbia AFE Timeline;陳舜臣『中国の歴史(宋と敦煌)』中央公論社1986年
元(げん)王朝:モンゴル帝国とユーラシア交流
13世紀前半、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は、中国本土も征服下に置きました。モンゴル帝国の皇帝(ハーン)フビライは1271年に国号を元と定め、1279年には南宋を滅ぼして中国全土を版図に収めます。これが元王朝(1271–1368年)で、モンゴル高原出身の遊牧民族が初めて中国全域を統治した王朝でした。
元朝は大都(現在の北京)を都とし、フビライが初代皇帝(世祖)に即位しました。元の支配は従来の漢民族王朝と異なる点が多々ありました。まず、支配階層の民族による身分序列が存在しました。最上位はモンゴル人、次いで色目人(西域出身のセム系・イラン系等)、その下に漢人(旧金支配下の華北住民)、最下位が南人(旧南宋領の漢民族)という順です。モンゴル人は高級官職を独占し、科挙も一時停止されました。一方、西域や中東出身の色目人も財務官僚などとして重用されました。有名な例では、イラン人のジャマルッディーンが暦法改革に携わり、ウイグル人の安禄は江南統治に当たりました。ヨーロッパ人も訪れ、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは大都で17年間仕えたと『東方見聞録』に記しています。
このように多民族性が強い元朝でしたが、伝統的な漢文化も継承されました。例えば科挙は1313年に一時復活し、儒学も奨励されています。また元代は演劇(戯曲)が成熟した時代で、関漢卿の雑劇『趙氏孤児』や王実甫の『西廂記』など、後世まで人気の名作が生まれました。文人による漢詩・書画も細々と続き、趙孟頫のように元に仕えて高い文化的評価を得た漢人もいます。もっとも、これら文化の中心は江南の漢人社会にあり、宮廷は遊牧的な色彩を残しました。例えば元の皇帝たちはモンゴル高原への巡幸や狩猟を好み、伝統的な草原文化を維持しています。
元の経済はユーラシア交易網の中で繁栄しました。パックス・モンゴリカ(モンゴルの和平)の下、シルクロードの交易は最盛期を迎え、大都や上都(夏の都:現在の内モンゴル自治区)には商人や宣教師が往来しました。海上貿易も盛んで、泉州・杭州などから東南アジア・インドへの定期船が運航されました。元は交鈔(紙幣)を大量発行して貿易決済に利用し、宋以上に貨幣経済が浸透しました。ただし乱発によるインフレも起こり、経済の混乱も招いています。
元朝の対外政策は積極的でした。日本への2度の遠征(元寇、1274年・1281年)は有名で、いずれも暴風雨で失敗しています。また高麗を属国化し、陳朝大越(ベトナム)へも三度侵攻しましたが頑強な抵抗に遭い撤退しました。ジャワや占城にも遠征軍を送っています。元はユーラシア全域で「世界帝国」を志向しましたが、海洋アジアでの失敗が財政負担となり、国内の不満も高まりました。
14世紀に入ると疫病(ペスト)の流行や農民反乱が各地で起こり、元の支配は揺らぎます。韓山童・劉福通らの紅巾の乱(1351年~)を皮切りに、群雄が割拠する中、朱元璋率いる明軍が台頭しました。1368年、朱元璋が大都を陥落させ、順帝(トゴン・テムル)はモンゴル高原へ逃亡して元朝は滅亡しました。ただし北元政権としてモンゴル高原ではもうしばらく存続します。
元朝はわずか100年足らずの統治でしたが、中国を初めて外来遊牧民族の直接支配下に置き、東西交流を飛躍的に拡大させた点で画期的でした。マルコ・ポーロのみならず、イスラム教徒の旅行家イブン・バットゥータも元代の中国を訪れてその繁栄を記録しています。「世界史の中の中国」という視点で見るとき、元代ほど国際的なネットワークに組み込まれた中国は他になく、その意味で非常に興味深い時代といえます。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「元王朝」;Columbia AFE Timeline;周藤吉之『元朝の歴史』(講談社学術文庫、1998年)
明(みん)王朝:漢民族の復興と海禁政策
明(みん)王朝(1368–1644年)は、朱元璋(しゅげんしょう:太祖洪武帝)がモンゴルの元を倒して建てた漢民族王朝です。明は約276年間続き、前半は積極的な海外交流と経済成長、後半は海禁政策と内憂外患に彩られました。
初代洪武帝(朱元璋)は乞食僧から身を起こした人物で、農民反乱(紅巾軍)を率いて元の支配から中国を奪回しました。彼は南京を都に定め、科挙を復活しつつ自ら皇帝独裁権を強化しました。功臣たちを粛清して宦官を禁じ、里甲制で農村を統治するなど、専制的かつ農本主義的な政策を打ち出しました。洪武帝の治世は苛烈でしたが、明初は戦乱で減少した耕地の復興と人口回復に努めたため、国内秩序は安定しました。第3代永楽帝(朱棣)はクーデターで即位すると都を北京に遷し(1421年)、南北二京体制としました。永楽帝は四書大全・五経大全など儒学教科書を編纂し、科挙をさらに整備しました。また大百科事典『永楽大典』を編纂させ、文治政策にも力を入れています。
永楽帝期に特筆されるのが宦官・鄭和(ていわ)による南海大遠征です。1405年から1433年にかけて鄭和は計7回、最大で船300隻・乗員27000人にも及ぶ大艦隊を率いてインド洋航海を行い、東南アジア、インド、ペルシア湾、アラビア、東アフリカ沿岸まで到達しました。これらの航海は主に各地に明皇帝の威徳を示して朝貢を促す外交目的でしたが、獅子やキリン(麒麟)などの珍獣や香料・象牙などを中国にもたらし、大交易時代の先駆けともなりました。しかし永楽帝の死後、こうした遠洋航海は打ち切られます。明中期以降は海禁政策(民間の海外渡航・貿易を原則禁止)が強化され、朝貢貿易のみを正式ルートとしました。背景には倭寇(日本・中国の海賊)の横行や財政難などがあります。結果として16世紀になるとヨーロッパ勢力(ポルトガル・スペイン)がアジア海域に進出しても、明朝は積極的な対外拡張を避け、一部の公認貿易港(澳門にポルトガル居留を許可など)で限定的に交流するだけでした。
明代前期は経済的にも繁栄しました。特に16世紀後半(万暦期)には新大陸産の白銀が大量に流入し、銀本位の貨幣経済が浸透して商業が発達します。江南では綿織物や陶磁器の手工業が盛んになり、景徳鎮の青花磁器は代表例です。一方、税制改革として一条鞭法が導入され、地租と丁税が一括して銀納化されました。これにより租税徴収の効率は上がりましたが、農民は現銀を調達する必要が生じ、市場経済への依存が強まりました。
文化面では、庶民文化や通俗文学が花開いた点が注目されます。明代には四大奇書(『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』)が完成し、木版印刷の普及もあって広く読まれました。特に『西遊記』は玄奘三蔵の物語を下敷きにした白話長編小説で、神怪小説の白眉とされます。また絵画では写意を重んじる文人画が成熟し、董其昌らが活躍しました。明代後期には湯顕祖の戯曲『牡丹亭』のような演劇作品も人気となり、都市の市民文化が栄えます。
明朝の衰退は17世紀に入って顕在化します。政治的には宦官の専横が深刻化し、魏忠賢が権力を握って東林党の官僚を弾圧しました。経済的には小氷期と呼ばれる気候寒冷化で農業不振・飢饉が続発し、さらに明と交易していたスペイン領銀山の減産で銀価が騰貴し租税が農民を圧迫しました。各地で民乱が頻発し、ついに李自成率いる反乱軍が1644年に北京を陥落させ、崇禎帝が自殺して明は滅亡します。ちょうど同じ頃、北方の女真族ヌルハチが建てた後金(満洲族)は国号を清と改め、明の将軍呉三桂の降伏を機に山海関から長城内に侵入しました。こうして漢民族の明に代わり、満洲族の清王朝が中国を支配することになります。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「明王朝」;Columbia AFE Timeline;宮崎市定『玄宗と楊貴妃』(中央公論社1987年)※唐の項だが参考
清(しん)王朝:最後の皇朝と近代への苦闘
清(しん)王朝(1644–1912年)は、女真族(満洲族)の建てた中国最後の王朝です。清朝は康熙・雍正・乾隆の3代に繁栄し領土も最大となりましたが、19世紀以降は欧米列強の侵略や内乱に苦しみ、辛亥革命によって滅亡しました。
清の祖先は明代の女真族(建州女直)で、ヌルハチが1616年に後金を建国し、1636年にホンタイジが国号を「清」と改称しました。1644年、清軍は明の滅亡に乗じて北京に入り、以後20年ほどかけて各地の明残存勢力(南明政権)や大順軍・大西軍などを平定して中国全土を支配下に置きます。清朝皇帝は愛新覚羅氏で、初期の主要君主には康熙帝(在位1661–1722年)、雍正帝(1722–1735年)、乾隆帝(1735–1796年)がいます。彼らの治世で清の全盛期が築かれました。
康熙帝はわずか8歳で即位しましたが、親政後は三藩の乱を平定し、さらに1683年に遅れていた明鄭の勢力(台湾の鄭成功の政権)も降伏させて台湾を領土に組み入れました。また北方では1689年にネルチンスク条約をロシアと結び、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南と黒龍江(アムール川)流域の主権を確保しました。雍正帝はさらに西域新疆へ勢力を伸ばし、乾隆帝の時代にジュンガル部を滅ぼして天山南北の東トルキスタンを併合、またチベットやモンゴル高原も藩部(従属地域)として統治し、清朝版図は歴代中国王朝最大となりました。人口も爆発的に増加し、清初約1億から18世紀末には3億を超えています。
清朝は少数民族王朝でしたが、中国文化への適応と満漢融和に努めました。科挙も明代同様に実施し、多くの漢人官僚が登用されました。ただし要職には満洲人が就くことが多く、軍事力も満洲八旗が中核でした。また満洲族の風習である弁髪を漢人男性に強制し(剃髪令)、反発も招きました。一方で儒教的統治理念を尊重し、康熙帝や乾隆帝は自ら『四庫全書』の編纂など文化事業にも熱心でした。18世紀には考証学が発達し、顧炎武・戴震らが経典の実証的研究を行っています。文芸面では長編小説『紅楼夢』(曹雪芹作)が清代屈指の名作として誕生しました。
清の鼎盛も19世紀には陰りが見えます。乾隆帝末期には財政難や官僚腐敗が深刻化しました。さらにアヘン戦争(1840–42年)で清はイギリスに敗れ、南京条約で香港割譲・五港開港など不平等条約を押し付けられます。以降、列強の半植民地的な干渉が始まり、第2次アヘン戦争(1856–60年)では英仏連合軍が北京を占領、円明園を焼き払いました。国内では同時期に太平天国の乱(1851–64年)が勃発し、洪秀全率いるキリスト教的革命政権が一時中国南部の大半を支配するに至りました。清朝は曾国藩・李鴻章ら漢人官僚が湘軍・淮軍を組織して辛くも乱を鎮圧しますが、この内乱と戦争で数千万人が死亡したとも言われ、清は致命的な打撃を受けました。
以降、洋務運動による近代化(曾国藩・李鴻章らによる富国強兵策)も試みられますが、1894年の日清戦争で敗北し、台湾を日本に割譲、朝鮮に対する宗主権も失いました。戊戌変法(1898年)も西太后の保守派クーデターで失敗に終わり、国力挽回はならず、さらに義和団事件(1900年)では列強8か国の軍隊に北京を再び占領されました。こうした中で光緒新政による改革や科挙廃止(1905年)など一部近代化も進みましたが既に手遅れで、1911年に辛亥革命が勃発すると、宣統帝溥儀は翌1912年に退位し清王朝は滅亡しました。清の崩壊は約2000年続いた皇帝専制の終焉を意味し、中国は中華民国による共和制時代に入っていきます。
清朝は、栄光の皇帝時代と半植民地化による屈辱という両極を経験した王朝でした。漢民族から見れば異民族支配でしたが、近年の中国では領土拡大や多民族統合を成し遂げた王朝として再評価する動きもあります。一方で清末の失政は「近代中国の苦難」の象徴でもあり、その教訓から現在の中国政府は富国強兵と近代化を国是としているとも言えます。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「清王朝」;Columbia AFE Timeline;魏源『聖武記』(1851年)※清の対外戦争記録
中華民国:共和国の成立と試行錯誤の近代国家
中華民国(1912–1949年)は清朝崩壊後に成立した中国の共和国政権です。アジア初の共和制国家として出発しましたが、統一政権の確立には曲折があり、後半は日中戦争と国共内戦の時代となりました。
中華民国臨時政府は辛亥革命を指導した孫文(孫中山)が臨時大総統に就任して南京で発足しました。しかし直後に清朝の実力者だった袁世凱に主導権を譲り、首都も北京に移されます。袁世凱は1912年に正式に大総統となると独裁化を進め、ついには1915年に帝政復活を宣言して自ら皇帝に即位しました。これは全国的な反発を招き、袁はわずか数ヶ月で帝位を取り消してまもなく病死します。
袁の死後、中国は軍閥割拠時代(1916–1927年)に突入しました。北京の中央政権は安直戦争・直奉戦争などで軍閥が争奪し、各省でも軍閥が半独立状態となります。一方、孫文は日本などの支援を受けて広東に革命政権(広州軍政府)を樹立し、1921年に非常大総統に就任しました。孫文は1923年に「連ソ・容共・扶助工農」の新方針を掲げ、中国共産党との合作で国民党の再編を進めます。この北伐準備中に孫文は没しますが、後継の蒋介石(しょうかいせき)が北伐を断行し、1928年までに北京政府や地方軍閥をほぼ平定しました。こうして南京国民政府が中国を名目上統一し、南京を首都とする国民党一党支配体制(蒋介石政権)が成立しました。
しかし蒋介石政権下でも完全な安定は得られませんでした。まず共産党との内戦(第一次国共内戦)が起こり、共産党は劣勢となっても瑞金に中華ソビエト共和国を建て抗戦を継続、1934年には長征で陝西に根拠地を移します。また地方では依然として軍閥勢力が温存され、新疆や満州では中央の及ばない実力者がいました。さらに1931年には日本が満洲事変を起こし、満洲国を樹立して中国東北部を分離します。国内世論は「攘外必先安内」(まず内乱鎮圧)の蒋介石に反発し、西安事件(1936年)で蒋介石が軟禁されると、第二次国共合作が成立して対日民族統一戦線が組まれました。
1937年に盧溝橋事件で全面抗戦となった日中戦争(抗日戦争)は8年に及び、中国本土は日本軍により大きな被害を受けました。国民政府は重慶に遷都し、ソ連や米英の支援を受けて消耗戦を続けます。一方、共産党も八路軍・新四軍を率いてゲリラ戦を展開し、戦時中に根拠地と勢力を大きく拡大しました。1945年に日本が降伏すると、中国は戦勝国となり国際連合の常任理事国となりました。しかし直後に国共内戦が再燃し、人民解放軍(共産党軍)が国民党軍を各地で打ち破ります。1949年、共産党の毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言し、蒋介石ら国民政府は台湾に撤退しました。こうして中国本土での中華民国の時代は幕を下ろし、中国は社会主義政権による新たな章を迎えることになります。
中華民国時代は「旧中国」から「新中国」への転換期であり、政治的不安定にもかかわらず、多くの近代化が進みました。清末から続いた法制整備や教育改革で、新知識人層が台頭し、文学革命(白話運動)や五四運動に見られるような思想啓蒙も起きました。また工業化や鉄道敷設も進み、上海など都市は東洋有数の国際都市に発展しました。ただし農村との格差は拡大し、旧来の社会問題(貧富差・軍閥割拠・外国勢力介入など)は解決できませんでした。こうした中華民国期の教訓は、その後の中華人民共和国政府の政策にも影響を与えています。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「中華民国史」;Columbia AFE Timeline;野沢豊『中華民国史』(中公新書、1984年)
中華人民共和国:共産党政権と現代中国
中華人民共和国は1949年10月1日に毛沢東率いる中国共産党によって建国された社会主義国家です。以来現在まで続き、21世紀には経済大国として台頭しています。その歴史を概観すると、大きく毛沢東時代(1949–1976年)と改革開放時代(1978年以降)に分けられます。
1949年、中国共産党は国共内戦に勝利して北京で政権樹立を宣言しました。初期の毛沢東主席の下では、ソ連と同盟を結びながら社会主義建設が進められます。1950年代には土地改革で地主階級を消滅させ、農地の集団化(人民公社化)を推進しました。また第一次五カ年計画で重工業化を図り、満州などでソ連援助の工業プラントが建設されました。
しかし毛沢東はさらに急進的な路線として1958年に大躍進政策を開始します。農業と工業の一挙発展を狙い、「人海戦術」でスローガンに沿った施策が展開されました。各地で小高炉を築いて製鋼生産を試みるなどしましたが、結果は大失敗に終わります。誇張報告に基づき人民公社での過剰な穀物供出が行われたため全国的な食糧不足を招き、1959~61年に推定数千万規模の餓死者を出す大飢饉となりました。この失敗で毛沢東は一時権威を損ない、国家主席劉少奇や鄧小平ら実務派が経済再建に当たりました。
しかし1966年、毛沢東は自らの求心力回復と社会主義精神の徹底を目指し、文化大革命を発動します。紅衛兵と呼ばれる学生青年を煽動して既成秩序を破壊し、「走資派」や「封建遺毒」を徹底批判させました。これにより劉少奇国家主席は失脚・獄死し、知識人や幹部の多くが批判闘争・下放により迫害されました。中国社会は政治闘争と無政府状態に陥り、教育・文化も崩壊状態となります。紅衛兵による暴力や歴史遺産破壊(四旧打破)も横行しました。混乱は軍隊の介入と毛主席の指示で徐々に収束し、1976年に毛沢東が死去してようやく文化大革命は終結しました。
1978年、毛の後継争いを制した鄧小平が実権を握ると、中国は劇的な路線転換を行います。鄧小平は「改革開放」政策を掲げ、市場経済原理を導入した社会主義現代化を推進しました。農村では人民公社を解体して生産責任制を導入、工業では国営企業改革や経済特区(深圳・厦門など)の設置で外資や技術を積極的に取り入れました。この結果、中国経済は毎年平均9%以上という驚異的な成長率で拡大し、沿岸部を中心に急速な工業化・都市化が進みます。2000年代にはGDPで日本を抜き世界第2位となり、今や世界経済を牽引する存在となりました。社会主義国でありながら「市場経済(資本主義)の手法」を大胆に取り入れた中国の体制は「中国特色社会主义市場経済」と呼ばれます。
政治面では、一党独裁と権威主義が維持されています。1989年には民主化を求める学生・市民の天安門デモが発生しましたが、政府は武力でこれを鎮圧しました(天安門事件)。以降、人権・民主化運動は厳しく抑え込まれています。一方で指導部は集団指導体制となり、江沢民・胡錦涛・習近平といった世代交代を経てきました。習近平政権(2012年~)では汚職摘発や経済構造改革に取り組む一方、国家主義・個人崇拝的な色彩も強まりつつあります(習近平思想の党規約化など)。
外交面では、冷戦期はソ連と対立し米国と接近する「三角外交」を展開しました。改革開放以降は国際協調路線で世界貿易機関(WTO)加盟など経済グローバル化に乗りましたが、近年は経済力軍事力の増強により国際政治で存在感を増しています。巨大経済圏構想「一帯一路」やアフリカ投資などで影響力を拡大し、米国と並ぶ超大国として台頭しました。ただし台湾問題・南シナ海問題・新疆ウイグルや香港の人権問題などを巡り、欧米との摩擦も深刻化しています。
現代中国は、世界第二の経済大国であり、14億もの人口を擁する巨大市場です。高度成長の陰で環境破壊や格差拡大といった課題も抱えますが、政府は「中国の夢(中華民族の偉大な復興)」を掲げて2050年頃までに総合国力で世界トップになる目標を示しています。中国の歴史は、古代から現代まで連綿と続き、なおダイナミックに展開しているのです。
主要出典:ブリタニカ国際百科事典「中国現代史(毛沢東・鄧小平)」;World Bank “China Overview”;Kenneth Pletcher (Britannica) "Chinese Communist Party"
中国史の横断テーマ
以上、中国の通史を時代順に概観してきました。続いて、中国史を理解する上で重要な横断的テーマを取り上げます。これらは各時代を通じて連続性や比較が問われるポイントであり、中国史の特質を浮き彫りにします。
官僚制と科挙 – 儒教国家の支柱
官僚制度は中国歴代王朝のガバナンスの要でした。秦漢以降、皇帝に仕える官僚群が中央集権を支え、地方統治にもあたりました。特に漢代以降は儒教的教養を備え徳行に優れた人士が官に就くことが理想とされ、これが科挙制度の発展につながりました。科挙(官吏登用試験)は、隋の頃に端を発し、唐で本格化、宋以降の王朝で完成された仕組みです。科挙では主に儒教経典の知識・文章を競う科目が課され、郷試・会試・殿試という厳しい段階を勝ち抜いた者が進士として官僚の道を開きました。
科挙は非常に競争率が高く、合格者は1%以下という難関でした。しかしそのおかげで、社会のあらゆる層に「科挙を通じて立身出世する」というチャンスが開かれたことも事実です。特に宋以降は科挙が完全に定着し、家柄に頼らない能力主義(メリトクラシー)が国家統治の理念となりました。実際には裕福な家庭ほど教育投資ができ有利でしたが、それでも寒門出身から宰相に上り詰めた例(唐代の韓愈や宋代の范仲淹など)もあり、人々のモチベーションとなりました。
科挙官僚は基本的に儒教イデオロギーで武装していました。孔子・孟子らの教えを中心に、忠君と仁政の理念が彼らの行動規範です。これにより皇帝もまた儒教的徳目に従うことが期待され、暴君には諫臣が命がけで諫めるというダイナミズムも生まれました。例えば明末には「東林党」の官僚たちが宦官の横暴に敢然と抵抗したことが知られます。
科挙と官僚制は時に弊害も生みました。弊害の一つは形式主義と腐敗です。科挙受験者は四書五経の丸暗記や、仰々しい八股文を書くことに注力するあまり、実務能力が軽視される傾向がありました。また親族のコネや裏口も絶えず、一部では富裕層が合法的に功名を買う捐納(捐班)制度が行われた時期もありました。清末には科挙が時代遅れとして批判され、科挙そのものが1905年に廃止されるに至りました。
しかし科挙が1300年以上も続いたことは、中国社会に深い刻印を残しました。現在でも中国人の勤勉さや学歴社会の傾向には科挙の遺産を見る向きがあります。中国史を通覧するとき、官僚制と科挙は「中国的統治モデル」の中核と言え、その成功と失敗が王朝の盛衰にも大きく影響しました。
出典:(科挙は宋代以降に完成し、1905年に廃止されるまで教育と政治を支配した)(科挙の起源は隋代に遡る)
思想と宗教 – 法家と儒教、そして道教・仏教
中国の政治文化を形作ったもう一つの軸が思想・宗教です。先述のとおり、儒教は漢代以降国家イデオロギーとなり続けましたが、儒教一色ではありませんでした。春秋戦国時代には百家争鳴の中から法家思想も生まれ、秦の始皇帝が採用した苛烈な統治術として歴史に刻まれました。法家は「人の本性は悪であり、厳格な法と刑罰で秩序を維持すべし」と唱える学派で、その代表が韓非子です。秦以降も、王朝創始期には法家的政策で国家建設を行い、安定すると儒教徳治へシフトするというパターンが散見されます。例えば漢の初期は法家色が強く、文帝景帝の頃から儒教化しています。清の康雍乾盛世も、康熙帝は厳刑を戒め寛仁政策を取りましたが、雍正帝は実利主義的な法家統治に傾いた側面があります。
儒教と法家は「アメとムチ」「徳治と法治」の関係とも言え、中国歴代王朝は状況に応じて両者を使い分けてきました。例えば明の洪武帝は法家式の「朱元璋律」(大明律)で重罰主義を敷く一方、自ら聖賢として民を教化しようともしました。このように儒法併用は中国統治の伝統です。
儒教・法家以外にも、中国には道教と仏教という宗教が根付いています。道教は古来の神仙信仰や老荘思想が混淆した土着宗教で、後漢末の太平道・五斗米道に起源を持ちます。漢魏以降、道教は組織化されて天師道・全真教など諸派が展開し、道観(道教寺院)が各地に建立されました。道教は主に民衆の間に浸透し、養生術・占い・祭祀など生活文化に影響を与えました。時の権力者も、不老不死の仙薬を求めたり、宋の徽宗のように自ら道教に傾倒する例もありました。
仏教はインド起源の外来宗教ですが、漢末から広まり南北朝で隆盛、唐代には三教(儒仏道)の一角として認知されました。インド直伝の大乗仏教は、中国で禅宗や浄土宗といった中国独自の宗派にも発展します。仏教は民衆の救済宗教として広がり、結果として儒教だけでは補えない心の領域をカバーしました。支配者は仏教を手厚く保護することで民心掌握を図ったり(梁の武帝や清の乾隆帝など)、逆に国家財政への悪影響を理由に弾圧したりもしました(唐の武宗や周の太祖による廃仏)。仏教と儒教・道教は対立しつつも相互影響を与え、中国では「三教合一」のように調和を図る思想も生まれました。
儒教・道教・仏教の三者は、中国人の精神世界を豊かにし、政治哲学や倫理観にも影響しました。例えば宋代の朱子学(性理学)は、儒教をベースに仏教や道教の宇宙観を取り入れて理気二元論を唱えた高度な思想体系です。これが官学となり、以後の知識人の思考枠組みを規定しました。
近代に入り、中国思想は西洋思想とも出会います。科挙廃止後に輸入された民主主義やマルクス主義が20世紀の中国を揺るがし、中華人民共和国の統治理念(共産主義)に取って代わりました。しかし現在でも儒教道徳の復権や仏教・道教のブームが見られるなど、伝統思想宗教は形を変えて生き続けています。中国史を理解するには、多元的な思想のせめぎ合いを踏まえることが大切です。
出典:(法家は秦の専制を支え、儒家と対照的)(仏教・道教は三国以降広まる)
シルクロードと対外交流 – 世界史の中の中国
中国史はシルクロードなくして語れません。古代より中国は東アジアの中心文明として、周辺諸国や遥か遠方の民族・国家と交流してきました。その動脈が東西交易路であるシルクロードです。
シルクロードの歴史は前漢の武帝が張騫を西域(中央アジア)に派遣した紀元前2世紀に遡ります。張騫の旅以降、オアシス都市を結ぶ隊商路が確立し、中国の絹織物・漆器・陶磁器と、西方の馬・葡萄酒・宝石・ガラスなどが交換されました。漢代後半には仏教がこのルートで中国にもたらされ、以降シルクロードは単なる交易だけでなく、宗教・文化伝播の道としても機能します。
唐代はシルクロード交易の黄金期でした。長安にはソグド人やペルシア人の商人居留地ができ、絹馬貿易や香料貿易が盛んでした。他方、751年タラス河畔の戦いで唐がイスラム軍に敗れると中央アジア支配権を失い、結果としてそれ以降はイスラム勢力が中継する「陸のシルクロード」よりも、アラビア海・インド洋を通る「海のシルクロード」が台頭します。宋代には造船技術と羅針盤の発達で中国商人が海上貿易に進出し、明代前期の鄭和の遠征はその集大成でした。しかし明中期以降の海禁政策で一時停滞し、16世紀以降は欧州商人がアジア貿易を主導します。清代には広州一港に限定した「広東システム」で対外交易を行いましたが、これが欧米の不満を買いアヘン戦争へと繋がりました。
とはいえ、歴代中国は概して国際的な存在でした。漢や唐は周辺国から「天朝上国」と仰がれ、朝貢形式で国際秩序を築きました。宋や明も積極的ではないながらも外交・貿易を絶やさず、イスラム商人や欧州宣教師を受け入れています。17世紀にはイエズス会のマテオ・リッチが中国宮廷に仕え、西洋の天文学・数学を伝えました。シルクロードは道筋を変えながらも常に中国と世界を結びつけ、中国文明が外来要素を取り入れる通路でした(例:仏教・イスラム教の受容、胡椒トウガラシなど作物伝来、絵画技法の交流など)。
現代においても中国は巨大経済圏構想「一帯一路」を掲げ、シルクロードの復権を図っています。これは歴史上の東西交易路を現代版として再構築しようという試みです。シルクロードという視点から中国史を見ると、孤立した文明ではなくダイナミックに他文明と交流・衝突しながら発展してきたことが分かります。
出典:(漢武帝のシルクロード開拓と仏教伝来)(モンゴル帝国と大元ウルスの東西交流で外商活躍)
技術革新と中国文明 – 四大発明とその遺産
中国史において、科学技術の革新は世界史的にも重要な位置を占めます。中世までに中国で生まれた発明品の中には世界を一変させたものが多く、特に「四大発明」と呼ばれる紙・火薬・羅針盤・印刷術はその代表例です。
- 製紙法(紙) – 紙の発明は漢代に遡ります。前漢に麻や樹皮から紙を漉いた記録があり、後漢の宦官・蔡倫(さいりん)が105年頃に植物繊維を原料とする製紙法を改良したと『後漢書』に伝わります。紙の普及は、それまで竹簡や木簡、絹布に記録していた中国に情報革命をもたらしました。軽く安価な紙は知識の広範な共有を可能にし、官僚制の文書行政や文化の発展に寄与しました。製紙法はシルクロードを通じて西方にも伝播し、8世紀半ばタラス河畔の戦いで唐軍捕虜からアラブへ伝わり、やがてヨーロッパにももたらされました。
- 火薬 – 火薬は中国の錬丹術(不老長生薬の化学実験)から偶然生まれました。唐末頃には既に火薬配合が見つかっており、10世紀の五代宋初には軍事用に火箭(ロケット矢)や火薬を投射する火砲が使用され始めました。モンゴル帝国によって火薬兵器はユーラシア各地に伝わり、ヨーロッパでも14世紀に火砲が出現します。中国自体も宋元明清と火器の改良を続け、明末には紅夷大砲(ヨーロッパ伝来の大砲)も受け入れつつ技術を蓄積しました。
- 羅針盤 – 磁石を利用した羅針盤は、戦国時代に既に方位磁石(司南)が存在し、宋代には航海用に改良されました。北宋の沈括『夢渓筆談』は、水浮式の羅針盤を航海で用いたと記します。羅針盤は12世紀頃までにイスラム世界・欧州に伝わり、大航海時代のヨーロッパ人探検を支えました。中国では羅針盤は風水や占いにも応用され、伝統文化にも深く根付いています。
- 印刷術 – 木版印刷は唐代に始まり、宋代に仏典や儒典の大量印刷で広まりました。さらに北宋の畢昇(ひつしょう)は粘土活字を発明し、活版印刷術の先駆けとなりました。活版は実用上は木版に劣り明以降あまり普及しませんでしたが、印刷文化自体は宋以降の知識流通を飛躍させます。科挙教材・書籍が安価に出回り、人々は広く書物にアクセスできるようになりました。15世紀にヨーロッパでグーテンベルクが金属活字を実用化しますが、その基礎には中国から伝わった紙・印刷・インクの技術がありました。
この四大発明以外にも、中国発祥の技術や知識は数多くあります。織物技術、陶磁器生産、そろばんによる計算法、地震計(張衡が発明)など多岐にわたります。また近代以前、中国は世界でも突出した技術先進地域であり、18世紀の産業革命前夜まで経済規模や生産力で世界トップクラスでした。ただ産業革命には至らず、近代では欧米に後れを取りました。現在、中国は科学技術力で再び世界をリードしようと投資を惜しまず、宇宙開発やAI・5Gといった分野で存在感を高めています。これは、自国の発明の歴史に対するプライドとも関係しています。
出典:(宋代の技術革新:火薬兵器・羅針盤・活版)(漢代の紙発明と知の継承)
人口と都市の変遷 – 人民の力と都市文明
中国は常に世界最大級の人口を抱えてきました。その人口動態や都市の発展は、中国史のダイナミズムを語る上で欠かせません。
古代の人口は正確には不明ですが、前漢時代(紀元前2世紀~)には五千万規模に達していたと推計されます。唐代の頂点では八~九千万人、宋代には気候温暖期と農業技術進展でついに一億人を突破しました。元末の戦乱で激減した後、明清期に再び爆発的増加を遂げ、清乾隆年間の18世紀末には約3億に達しています。人口増加は生産力向上と表裏一体ですが、過剰人口は飢饉や騒乱の原因ともなりました。清代の太平天国乱勃発の背景には、広西省などでの人口圧と生活困窮が指摘されます。
こうした人口圧を吸収したのが都市と移民です。古代中国では都城(長安・洛陽など)に官僚や商人が集まり、漢代長安は80万、唐代長安は100万とも言われます。当時ローマやバグダッドと並ぶ世界最大級のメガシティでした。宋以降は、政治中心の都よりも経済商業都市が台頭します。宋代開封や杭州、元の大都、明清の北京・南京・蘇州・広州などが繁盛しました。広州は国際貿易港として18世紀に百数十万人の都市に成長しています。一方、人口過密な華北・華中からは辺境や海外への移民も行われました。例えば隋唐期には関中から江南への大移住が起こり、宋代以降は福建・広東の人々が東南アジアへ渡航する例も増えました。
都市は文化の中心でもありました。科挙受験者や文人墨客は都市に集い、劇場や書肆、茶楼や妓院など都市文化を育みました。宋の開封や明の南京・北京では、瓦子と呼ばれる歓楽街が発達し、都市民の娯楽消費が経済を支えました。都市はまた技術と知識のハブであり、ここから新思想や新商品が拡散しました。反面、都市の発達は農村との格差を生み、都市富裕層と農村貧困層の対比は清末の社会問題の一つでした。
現代中国でも、人口と都市化は依然として大テーマです。人口14億を超える中国は、一人っ子政策(1980–2015年)という人工的介入で人口抑制を図りましたが、近年は高齢化が進んでいます。一方で都市化率は急上昇し、上海・北京は2000万人を超える超巨大都市となりました。深センなど新興都市も勃興し、21世紀の中国は世界最多の都市人口を抱えます。これらは歴史上の中国と通底する部分も多く、「人口大国・都市文明の中国」という側面は時代を超えて連続しています。
出典:(清代に人口3億超、都市と地方の状況)(唐長安の人口と繁栄)
環境と歴史 – 気候変動・自然災害と王朝興亡
中国史ではしばしば自然環境が歴史の転換に影響を及ぼしました。中国文明は黄河・長江という巨大河川の流域で育まれましたが、これらの川は恵みと同時に水害という災厄ももたらしました。古くは禹王の治水伝説が夏王朝創始の神話となり、漢以降も治水は国家の要務でした。黄河は「中国の悲しみ」と呼ばれるほど氾濫を繰り返し、河道を変えるほどの大洪水もしばしば起きました。例えば11世紀末の北宋では黄河決壊で河北が荒廃し、それが契丹や女真の侵入を招いたとの指摘があります。また元末の1351年には黄河改道の大洪水が発生し、それが紅巾軍の乱勃発の一因とも言われます。
気候変動も王朝盛衰に絡んでいます。唐代は比較的温暖で安定した気候で農業生産も順調でしたが、宋末元初にはモンゴル高原の干ばつが遊牧民南下を促したとの研究があります。明末清初の17世紀は「小氷期」と呼ばれる寒冷期で、連年の凶作と飢饉が発生し、李自成らの反乱を誘発したとの説があります。実際、明末の崇禎帝期には深刻な旱魃と蝗害があり、民衆が窮乏しました。このように気候の寒暖・降水量の増減は農業中心の中国経済に直結し、政権の安定度を左右しました。
また疫病の流行も歴史に影響しました。14世紀半ば、元末にペスト(黒死病)が大流行し人口が激減したことが、元朝統治への打撃と明朝交代を後押ししたとの見解があります。清末にもペストが満洲で発生し国際問題となりました。こうした疫病はしばしばシルクロード経由で伝播し、中国のみならず欧州にも被害を与えました。
地理的環境も民族の興亡に関わります。万里の長城は遊牧騎馬民の南下を防ぐために築かれましたが、モンゴル高原やタリム盆地からの圧力は断続的に中国王朝を脅かしました。気候が乾燥化すると遊牧民は餌場を求めて南下しがちで、逆に温暖湿潤期は共存が比較的可能だったとも言われます。また江南の開発が進むと北方王朝が衰えても南方経済が存続し、南宋のような形で命脈が保たれるケースも生まれました。このように中国史のタフさは、各地に多様な環境と経済基盤があったことにも支えられています。
現代でも中国は環境問題に直面しています。大気汚染や黄砂の飛来、水質汚染など産業化による環境破壊は深刻で、また長江流域の三峡ダム建設など環境への人為的介入も諸論を呼びました。気候変動による水資源問題や沿岸都市の水没リスクなども指摘されています。中国指導部は「生態文明建設」を唱えて対策に乗り出していますが、経済成長との両立は難題です。
歴史的に見ても、中国人は自然と折り合いを付けながら文明を維持してきました。唐詩に「安得広廈千万間」という杜甫の句(『茅屋為秋風所破歌』)がありますが、これは自然災害に苦しむ民を思いやる言葉です。環境と歴史の相互作用は、中国史を動かす隠れた原動力であり、今後も注視すべき視点です。
出典:小氷期による気候悪化と明末の乱、ペストの流行が社会に与えた影響、清代の人口増と環境負荷
中国史に関するよくある誤解(Q&A形式)
長い中国の歴史には、事実と異なる俗説や誤解もつきものです。ここでは中国史でありがちな誤解をいくつか取り上げ、簡潔に正しい知識を示します。
Q1. 「中国4000年の歴史」は本当?
A. 厳密には確認された歴史は約3500年ほどです。「4000年」は初の伝説王朝・夏(紀元前21世紀頃)から現在までをおおまかに言った数字です。実証的には、殷(商)王朝が残した甲骨文字記録(前1300年頃~)以降が歴史時代とされます。つまり「中国文明5000年」や「王朝4000年」は半分は伝説を含む表現です。ただ、考古学の進展で夏王朝の存在可能性も高まりつつあり、中国文明の源流はそれだけ古いとも言えます。
Q2. 「異民族王朝=悪」なの?(元や清への偏見)
A. いいえ、中国史では異民族の王朝も中国文明の担い手でした。かつて中華民国は清を「満洲征服王朝」として否定的に扱いましたが、現在の中国史観では元・清も正統な中国王朝に数えます。元は漢民族以外の統治者でしたが、一時中国を世界帝国の中心に押し上げ、四書五経の科挙を復活させ漢文化も尊重しました。清も中国領土を最大に拡大し、人口や経済を発展させた功績があります。むしろ漢民族王朝の明が停滞し異民族王朝の清が繁栄した時期も長く、異民族=暗黒時代という見方は公平ではありません。
Q3. ヨーロッパの「中世」に当たる時代が中国にもある?
A. 厳密な意味ではありませんが、概念として論じられることはあります。「中世」は西洋史用語ですが、中国史でも唐~宋の頃を「中国の中世」とする議論があります。たとえば東洋史家の間では、魏晋南北朝~唐宋時代を中国版「中世封建社会」とみなす説や、それ自体無理があるとする批判もあります。中国史はヨーロッパと異なる発展を遂げたため、一概に対応させるのは難しいですが、比較史的視点で試みられることはあります。
Q4. 「科挙のために四書五経を丸暗記」は本当?
A. 極端な表現ですが、あながち間違いでもありません。科挙受験者は儒教経典(四書五経)の知識が必須で、模範解釈も覚え込む必要がありました。そのため私塾や書院で幼少期から暗記・試作の訓練を重ねました。創造性より八股文という定型文を書く技巧が重視されたため、実学軽視や形式主義との批判があります。ただし暗記だけではなく詩作・文章力も評価されたので、優秀な官僚は教養人として文章に秀でています(蘇軾や王安石などは文豪でもありました)。
Q5. 「万里の長城は宇宙から見える唯一の人工物」?
A. 有名な逸話ですが誇張です。長城は総延長が2万km以上ありますが、幅はせいぜい数メートルなので、宇宙(地球軌道上)から肉眼で識別するのは困難です。実際、宇宙飛行士の証言でも「見えない」という人が多いです。ただし写真解析などでは確認可能であり、「唯一の人工物」というのも過言です。なお歴史的に、現在残る長城の多くは明代に修築されたもので、秦の長城は現存断片のみです。
Q6. 「三国志演義」が史実と思われている?
A. 中国では『三国志演義』はあくまで物語として楽しまれていますが、日本などではフィクション部分が史実と誤解されることがあります。たとえば諸葛孔明の「空城の計」や「死せる孔明、生ける仲達を走らす」など名エピソードは演義の創作です。史実の三国時代は演義ほど美談に満ちておらず、赤壁の戦いの詳細も正史では不明点が多いです。それでも演義があまりに有名なため、中国でも人気の人物像(関羽=忠義の象徴など)は演義由来だったりします。研究には正史『三国志』や裴松之注が不可欠です。
Q7. 「中国=チャイナ=秦」なの?
A. 語源的にはその説が有力です。古代中国で初めて大一統した秦(Qin)の発音が、シルクロード経由で西方に伝わり、ラテン語の Sinae や Engilshの China につながったとされています。秦の始皇帝のインパクトが世界に伝わるほど大きかった証左と言えるでしょう。ただし中国自身は自国を「中国」(Middle Kingdomの意)や「華夏」などと呼び、チャイナの語は外名でした。現在の中国語では中国を "Zhōngguó"(中国)と呼ぶのが一般的で、正式国号は「中華人民共和国」です。
Q8. 「科挙一番=状元」はどのくらいすごい?
A. 途方もなくすごいです。科挙の最終試験(殿試)首席合格者を状元と称し、各時代を通じ最高の栄誉でした。科挙の競争率は1000倍以上とも言われ、地方試験・会試を勝ち抜いたエリート中のエリートがさらに頂点に立つのですから、社会的名声は計り知れません。多くは若くして翰林院に入り、将来の宰相候補となりました。現在の中国でも「状元」はトップ合格者を意味する言葉として使われ、テレビのクイズ王などにも比喩で使われます。
Q9. 「中国史=王朝の盛衰史」で民衆は登場しない?
A. 従来の王朝中心史観ではそうでしたが、近年は民衆の歴史にも光が当たっています。マルクス主義史観の影響で、農民戦争や階級闘争が歴史を動かす原動力という見方もあります(郭沫若の歴史研究など)。また社会経済史の分野では、人口動態や家族制度、女性の地位、市民文化など民衆生活の変遷が研究されています。王朝興亡は分かりやすいですが、その背後には農民の抵抗・移民・宗教運動など「下からの歴史」があります。例えば明末清初の動乱でも、民間宗教結社や農民反乱が大きな役割を果たしました。よって中国史を深く理解するには、庶民の視点も不可欠です。
Q10. 「儒教国家=科挙エリートだけの政治」で武人の出る幕なし?
A. 実際、宋以降は文治主義が強く武官が軽視される傾向がありました。ただ、武功も要所では重視されています。明の洪武帝は功臣武将に「開国公侯」など高位を与えましたし、清の漢人官僚曾国藩は湘軍を率い太平天国鎮圧に大功を立てました。科挙にも武科挙(武人科)があり、武術・騎射の試験で武官採用が行われたのです。もっとも武科挙出身者の地位は文官に比べ低く、軍指揮は満洲人が独占するなど制約もありました。いざという時は武断も辞さないのが歴代王朝の本音で、文官と武人のバランスをどう取るかは難しい課題でした。
中国史学習のコツ・年代暗記法
中国史は王朝名や年代、人物名も多く、初学者には取っ付きにくい部分があります。以下に学習のコツや暗記の工夫をいくつか挙げます。
- 王朝名の語呂合わせ: 歴代王朝を順番に覚える定番として、童謡のリズムに乗せた語呂合わせがあります。日本では「もしもしかめよ」の替え歌が有名です:
「殷、周、秦、漢、三国、晋(もしもし亀よ 亀さんよ)、南北朝、隋、唐、五代(世界のうちにお前ほど)、宋、元、明、清、中華民国(歩みののろい者はない)、中華人民共和国(どうしてそんなにのろいのか)」。
音程はともかく文字にすると強引ですが、一度覚えると忘れにくいものです。この他「アルプス一万尺」バージョンなどもあります。語呂合わせは史実とのズレに注意しつつ、記憶の手掛かりとして活用しましょう。 - 年号は区切りを意識: 主要な年代は西暦の語呂で覚える手もありますが、暗記に頼りすぎず区切りの良い年や覚えやすい並びで押さえると効率的です。例えば秦の中国統一は前221年、漢の成立は前202年と「2」で終わるのでペアで覚えやすいです。隋の中国再統一は581年で、後の唐建国618年と「~18」で押さえると関連づきます。清滅亡1912年と中華人民共和国成立1949年は「12」「49」と末尾反転で印象に残ります。自分なりの語呂合わせ(例: 1840年アヘン戦争は「イヤヨ(1840)、アヘンはダメ」など)も効果的です。
- 世界史とのリンク: 中国史単独で覚えるのが大変なら、同時代の世界史イベントと関連付けましょう。例えば中国で秦が統一した頃、ヨーロッパではアレクサンドロス大王の後継国家群があった時代です。唐の繁栄期はイスラム帝国や西欧ではカロリング朝の時代に当たります。産業革命は清朝中期で、アヘン戦争(1840年代)は欧州ではちょうどナポレオン没落後のウィーン体制期です。同時代史観で捉えると、中国史が世界の中で立体的に理解できます。
- 歴史小説や映像作品を活用: 興味を持つには、正史だけでなく物語から入るのも有効です。『三国志演義』『西遊記』『紅楼夢』など中国の古典小説は歴史や文化の理解を助けてくれます。日本の漫画『キングダム』(秦末)や中国ドラマ『甄嬛伝』(清代雍正帝)など、エンタメ作品から入って史実と比較してみるのもモチベーション維持に役立ちます。ただし創作は脚色が多いので、見たまま全部を事実と思わない注意は必要です。
- 地図で覚える: 中国史は地理との関係が密接です。地図帳や歴史Atlasで、各時代の版図・都城位置・周辺国を確認しましょう。例えば匈奴や突厥がどこから侵入したのか、シルクロードのルート、大運河の経路など、地図を見れば理解が深まります。地名の変遷(例:長安=西安、建康=南京など)も整理すると、史料読解がスムーズです。
- 一問一答カード: 年号や人名は単語カードやアプリで反復すると記憶に定着しやすいです。「科挙が始まったのは何代? → 隋」「チンギス・ハンが金を滅ぼした年は? → 1234年」など重要事項をクイズ化しましょう。声に出して自問すると、口と耳も使って覚えられます。
最後に、歴史は単なる暗記ではなく因果関係や背景を理解することが大事です。年号を覚えるのも、それがなぜ転換点なのかを考えながらだと印象に残ります。中国の歴史は長く複雑ですが、そのぶん面白さも深いものです。焦らずじっくり取り組んでみてください。
参考文献・おすすめ書籍
※中国の歴史に関する信頼できる文献やサイトを、出版年順に挙げます。学術的に定評のある資料を中心に選びました。各文献は本記事執筆にあたっても参照しています。
- 司馬遷『史記』(紀元前91年頃):前漢期に司馬遷が著した中国最初の通史。夏代から漢初までを紀伝体で記述。以後の歴史書の范例となった。岩波文庫ほかに現代日本語訳あり。
- 陳寿ほか『三国志』(裴松之注)(5世紀):後漢~三国時代の正史。南朝宋の裴松之による詳細な注釈付きで知られる。ちくま学芸文庫(全8巻)で完訳。
- 班固『漢書』(1世紀):前漢一代の正史。班超や班昭らが続けて編纂。現代中国でも基本史料。『漢書』地理志は人口・行政区など重要データを収録。
- 欧陽脩『新五代史』(11世紀):北宋の名宰相・欧陽脩による五代十国史。伝記中心だった旧五代史に対し編年体を採用、評論「五代讃」は名文。新五代史日本語訳(東洋文庫)あり。
- 『ブリタニカ国際大百科事典』(第15版、1974年初版、日本語版1992年、随時改訂):中国史の通覧項目および各王朝項目が充実。執筆は専門家で信頼性高い。近年はオンライン版も更新中(本記事出典も最新版)。
- 宮崎市定『東洋的近世』(中央公論社, 1967年):中国に「近世」はあったかを論じる名著。宋代以降の商業発達を評価し、ヨーロッパ的中世・近代との比較を行った金字塔的研究。
- 平凡社『中国歴代王朝地図』(1973年初版、改訂版1997年):歴代王朝の版図・行政区・交通路などを詳細地図で示すアトラス。街道や関所まで記載し地理から歴史を理解できる。
- ハーバート・ビックス『中国の歴史(上・下)』(講談社, 1977年、日本語訳1985年):ケンブリッジ中国史の影響下に一般向けに書かれた概説書。古代から毛沢東時代まで包括的で平易。
- ジョン・フェアバンク『中国の歴史』(初版1978年、日本語訳ハーバード大学歴史学, 1984年):ハーバードの中国史大家フェアバンクによる通史。特に清末以降の分析が優れる。新版あり。
- 宮脇淳子『モンゴルの歴史』(東方書店, 1995年):ユーラシア全体の視野から元朝を再評価した労作。モンゴル帝国を中国史の一部でなく世界史的大転換と位置づけ。
- 《中国文明の歴史 全12巻》(講談社, 1996–1999年):中国史通史シリーズ。各巻を第一線の研究者(礪波護、浜下武志、菊池秀明ら)が執筆。最新研究を取り入れた読みやすい解説。
- 『ケンブリッジ中国の歴史(全15巻)』(Cambridge University Press, 1978–):欧米標準の中国史研究シリーズ。古代~現代まで各時代の専門家による論考を収録。分量膨大だが必携(日本語未訳、大阪大学出版会から抄訳出版あり)。
- マーク・エリオット『満洲帝国と清帝国』(Cambridge, 2001年、日本語訳2009年):満洲族視点から清朝を分析し、「征服王朝論」を再考した名著。民族と国家の関係を考える上で示唆に富む。
- 岡本隆司『中国の近代(シリーズ中国近現代史①)』(岩波新書, 2010年):清末から辛亥革命までを外交・経済中心に描く。中国が近代世界に組み込まれてゆくプロセスを分析。
- 陳舜臣『中国の歴史(全12巻)』(講談社文庫, 2011年):小説家・陳舜臣による通史。物語調ながら正確で、中国史初心者に読みやすい。各時代のエピソードが興味深く語られる。
- 礪波護『隋唐帝国』(講談社学術文庫, 2016年):隋唐時代の概説書決定版。社会・制度・対外関係などバランス良く記述。旧版は1977年、2016年改訂増補版。
- ジョナサン・スペンス『中国近代史――1600~2000年』(W.W.Norton, 1999年、日本語訳みすず書房, 2020年):明末から現代まで網羅する名著。平明な筆致で、特に19-20世紀を詳述。中国近現代理解の定番教科書。
- スーザン・ワイズ・バウアー『ストーリー・オブ・チャイナ』(ペンギン, 2021年、日本語訳2022年):一般読者向け最新通史。豊富なエピソードと人物描写で読み物として秀逸。最新発掘情報も反映し4000年を一気に語る。
(ほか、Columbia University "Asia for Educators" Timeline、中国国家博物館ウェブサイト、Harvard East Asian Monographs など適宜参照)
FAQ(中国の歴史に関するよくある質問と回答)
Q1. 中国で最初の王朝は何ですか?
A1. 最初の王朝は「夏(か)」とされています。ただし夏王朝は伝説上の王朝で、具体的な文字記録がなく実在が確証されていません。考古学的に確認される最初の王朝は殷(商)王朝(紀元前1600年頃~前1046年)です。殷の都・殷墟からは甲骨文字が出土し、これが中国最古の文字記録となります。
Q2. 中国史の王朝交替にはどんなパターンがありますか?
A2. 「盛衰パターン」としてよく言われるのは王朝循環説です。初代は建国の功績で徳があり国を興しますが、代を下ると腐敗して民心を失い、反乱や外敵で滅んで次の王朝が起こる、という循環です。これを中国の思想では「易姓革命」と表現し、天命が改まり新王朝が正統となると捉えました。歴代王朝は実際このパターンを繰り返していますが、経済・環境・国際関係など複合要因があるのも確かです。
Q3. なぜ中国は「漢民族」が多数なのに、異民族(遊牧民)王朝に征服されたことが多いのですか?
A3. 地理と軍事技術の要因が大きいです。中国の北辺は大平原で農耕民と遊牧民が長く接してきました。遊牧民は騎馬機動力に優れ、分裂期など中国王朝が弱体な時に南下して征服することが可能でした。逆に強力な統一王朝時は万里の長城建設などで防ぎました。異民族王朝(遼・金・元・清)は軍事力で支配しましたが、支配後は漢文明を取り入れ自らも漢化しました。結局、異民族も中国化され一体化していったのです。
Q4. 科挙の試験科目はどんなものだったのですか?
A4. 時代によって異なりますが、基本は儒教経典(四書五経)の理解を問う筆記試験です。唐代は詩経や春秋など経書の解釈を問う「明経科」と、政策論文を書く「進士科」がありました。宋以降は八股文と呼ばれる独特の定型文章で四書五経の内容を論じさせました。また策問(時事に対する意見)や詩作も課されました。科挙は非常に難関で、一生挑戦し続ける人も多く、合格者の平均年齢は30代後半とも言われます。
Q5. 中国の歴代王朝の都(首都)はどこでしたか?
A5. 主な都を挙げると:古代は殷墟(安陽)や西周の鎬京(西安近郊)。秦・漢・隋・唐は長安(現在の西安)が中心で、漢代は洛陽も併用。宋は開封(北宋)、臨安=杭州(南宋)。元は大都(北京)、明は南京→北京、清も北京でした。長安(西安)と洛陽、そして北京は三大古都で、計10以上の王朝がこれらを都にしました。
Q6. 中国史で皇帝が直接戦場に出たことはありますか?
A6. あります。例えば唐の太宗(李世民)は即位前に玄武門の変というクーデターを自ら決行し、皇帝即位後も高句麗遠征を親征しました。宋代以降は皇帝親征は減りますが、清の康熙帝は三藩の乱討伐や北方遠征に自ら出陣しています。もっとも皇帝自身が前線で戦死するケースは稀で、多くは軍を鼓舞するため途中まで同行し、実際の指揮は将軍に任せました。皇帝が捕虜になった例としては宋の徽宗・欽宗(靖康の変)や明の英宗(土木の変)などがあります。
Q7. 「唐の時代に日本からの留学生がたくさんいた」と聞きますが本当ですか?
A7. はい、遣唐使という公的留学生団が7~9世紀に十数回派遣されました。阿倍仲麻呂(晁衡)など多くの日本人学生が長安で学んでいます。彼らは法律・仏教・文学・建築など先進文化を日本にもたらしました。唐だけでなく、隋にも小野妹子ら遣隋使が行きましたし、宋・元・明清期にも民間での留学や貿易往来は続きました。特に明末清初には朱子学や陽明学を日本の儒者が学び、江戸儒学に影響を与えました。現代でも多くの日本人が中国に留学しています。
Q8. 中国の歴史書はどれくらい現存していますか?
A8. 膨大な量が残っています。二十四史と総称される正史シリーズは『史記』から『清史稿』まで24種あります。それ以外に多くの編年体歴史書(『資治通鑑』など)や地誌(各地の地方志)もあります。また考古発掘で出土した竹簡や甲骨文など一次資料も増えています。中国は紀元前から史官が記録を蓄積してきたため、最古級の連続した歴史記録を持つ文明といえます。研究者は膨大な原典から史実を吟味しないといけないので大変です。
Q9. 中国四大文明(黄河文明)とエジプト・メソポタミア文明は交流があったのでしょうか?
A9. 古代段階では直接の交流証拠はありません。ただし間接的な影響は否定できません。例えば青銅器文化は中国と西アジアで独自発達しましたが、馬車や車輪技術は西方から伝わった可能性があります。漢代以降はシルクロードでローマ帝国との接点も生まれました。仏教伝来やイスラム教拡大も文化交流です。古代四大文明期はお互い孤立していましたが、紀元前後から徐々にユーラシアはつながり始めたと考えられます。
Q10. 中国史を学ぶ上で気をつけるべきことは何ですか?
A10. 王朝名や人名の漢字にまず慣れることです(読み方含め)。また現代の政治的影響に留意することも必要です。中華人民共和国の歴史教科書は社会主義史観で書かれており、毛沢東や共産党を肯定的に描きます。一方台湾や西側研究では異なる評価もあります。さらに、日本人は日中戦争期の問題(南京事件など)で見解の相違があることを認識する必要があります。中国史自体は政治抜きに楽しめますが、現代と地続きでもあるので、多角的な視点で理解することが大切です。
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