
要約
日本の歴史は、旧石器時代から現代の令和まで連綿と続く壮大な物語です。縄文時代の狩猟採集文化から弥生時代の稲作導入による社会変革、古墳時代の大王(おおきみ)による統合、飛鳥・奈良時代の中央集権国家成立と仏教公伝、平安時代の貴族文化の爛熟、鎌倉幕府に始まる武士政権の興隆、戦国の動乱と安土桃山時代の天下統一、徳川幕府による江戸時代の長期平和と鎖国政策、そして明治維新による近代国家への転換、大正デモクラシーや昭和の戦争と復興、高度経済成長を経て平成・令和の現代に至るまで、それぞれの時代が固有の政治・社会・文化的特徴を持っています。本ガイドでは各時代区分の定義と年代、社会構造と政治体制、文化と宗教の発展、対外関係、そして代表的な歴史史料を総合的に解説します。一次史料や公的機関の情報に基づく信頼性の高い記述を通じ、日本史の全体像を把握できる決定版コンテンツです。
日本の歴史:縄文から令和まで完全ガイド
日本の歴史は、約数万年前の先史時代から現代の令和時代に至るまで、長い年月を経て形成されてきました。主要な時代区分ごとに社会構造や文化は大きく変化し、各時代には日本独自の発展と国外との交流が見られます。本ガイドでは、先史・古代から中世・近世・近代・現代までの日本史を俯瞰し、重要ポイントを網羅的に解説します。記事の各節では、まず時代の定義と期間を示し、その後に社会・政治の特色、文化・宗教の動向、国際関係、代表的な史料を順に取り上げます。さらに各時代の末尾には要点整理や歴史用語のまとめも掲載しています。一次史料の引用や公的機関のデータに基づき、最新の研究にも配慮した信頼性の高い記述となっています。それでは、「縄文時代」から「令和」まで日本の歴史の旅へと出発しましょう。
縄文時代(〜前10世紀頃)
時代の定義・年代
縄文時代は、日本列島における最古の土器文化を特徴とする先史時代です。約1万3千年前(紀元前13,000年頃)から始まり、1万年以上にわたって続いたとされます。縄文土器(表面に縄目文様を施した土器)の使用開始にちなみ命名され、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されます。時代の終末は、稲作の伝播による生活様式の転換とともに訪れ、概ね紀元前10世紀頃までに次の弥生時代へ移行しました。
社会・政治
縄文時代の人々は狩猟採集社会を営み、栗やどんぐりなどの植物採集、シカ・イノシシなどの狩猟、漁労によって生活しました。定住化の兆候も見られ、各地に竪穴建物の集落跡が残っています。気候温暖化に伴い自然環境が豊かになる中で、土器の発明により煮炊きや食物の保存が可能となり、生活革命が起こりました。政治的には明確な身分階層や国家はまだ成立しておらず、小規模な共同体(ムラ)が各地に点在し、首長的な存在がいた可能性はあるものの、後の時代のような中央集権的支配は存在しません。
文化・宗教
縄文文化は多様で豊かな精神性を示す遺物を残しました。各地で土器の形や文様は異なり、地域ごとに独自の文化圏が存在していたと考えられます。とりわけ中期以降には火焔型土器など意匠に富んだ土器が出現し、造形美から縄文人の高度な創造性がうかがえます。また、土偶(素焼きの人形)や石棒などの呪術的・宗教的道具も数多く出土しています。土偶は妊娠した女性をかたどったものが多く、豊穣や安産を祈る信仰と関わるとも考えられ、縄文人の精神文化を知る重要な手掛かりです。この時代には文字が存在しないため、思想や信仰は推測の域を出ませんが、自然物や動植物を精霊として祀るアニミズム的信仰があったと推定されています。
国際関係
縄文時代には明確な国際関係は存在しませんでした。まだ国家という形態がなく、大陸の中国や朝鮮半島との組織的交流も後の時代ほどには確認されていません。ただし、黒曜石など特定の石材が数百km離れた地域まで運ばれている形跡があり、物々交換的な広域交流はあったようです。また、縄文時代の早期には大陸や南方から人々が日本列島に移住した痕跡も指摘され、人類学的な交流は断続的に行われていた可能性があります。とはいえ、外交や戦争といった国家間関係が記録されるのは弥生時代以降であり、縄文時代は基本的に列島内で独自に文化が育まれた時代です。
代表的な史料
縄文時代は文字記録がなく、当時の様子を知る手がかりはもっぱら考古学的史料に限られます。代表的なものとして、青森県青森市に所在する大規模集落である三内丸山遺跡から出土した数々の土器・石器類、青森県亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶などが有名です。また、棚畑遺跡(長野県茅野市)出土の土偶「縄文のビーナス」(国宝)や、中空土偶(北海道函館市・著保内野遺跡出土、国宝)は縄文文化を象徴する遺物です。こうした遺跡や出土品そのものが史料であり、国立博物館や自治体の考古資料館で保存・展示されています。特に土器は編年研究により年代推定の基準となる重要史料です。縄文時代を直接記録した文書は存在しませんが、これらの物質資料が縄文社会を物語る証拠となっています。
Key Takeaways: 縄文時代は約1万年以上続いた先史時代で、縄目文様土器に象徴されます。狩猟採集中心の生活を送り、定住化の始まりや土器の発明など技術的進歩が見られました。土偶など豊かな精神文化が発達しましたが、文字記録がなく国家も未成立のため、社会は小規模共同体に留まりました。
RDFトリプル:
- 〈縄文時代, 存続期間, 紀元前13,000年頃〜紀元前10世紀頃〉
- 〈縄文時代, 生活, 狩猟採集と採集を主体とする定住生活〉
- 〈縄文時代, 文化, 縄文土器・土偶など多様な考古遺物〉
固有名詞辞書: 縄文時代 (じょうもんじだい, Jomon period) - 日本最古の土器文化を持つ先史時代。
弥生時代(前10世紀頃〜3世紀中頃)
時代の定義・年代
弥生時代は、水稲耕作の開始と金属器の使用により縄文文化から画期的転換を遂げた時代です。紀元前10世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて北部九州で稲作が始まり、それが東日本まで緩やかに波及していったと考えられています。一般には紀元前5世紀頃から始まり、3世紀中頃(約250年頃)に大和地方で巨大古墳が出現するまでを弥生時代と位置付けます。東京の本郷弥生町で発見された土器にちなみ命名され、前期・中期・後期の区分があります。中国の歴史書『漢書』『後漢書』に「倭」として日本が登場するのもこの時代で、文献に初めて記録が現れる歴史時代の端緒とも言えます。
社会・政治
弥生時代には農耕社会が本格化し、縄文時代と比べて定住集落の規模が拡大しました。稲作の開始により生産力が飛躍的に向上し、田んぼの水管理や収穫物の蓄積が可能になると、村落同士の交流や統合が進みます。水田稲作は北部九州で始まり、徐々に東へ広がりました。この過程で、各地にクニ(小国)が形成され、やがて統率者(首長)を戴く身分構造が生まれます。青銅製の武器や銅鐸など祭器の出土から、クニ同士の争い(戦争)の発生や宗教的祭祀の実施が推測されます。とりわけ弥生後期には、北九州から畿内にかけていくつかの有力勢力が台頭し、邪馬台国の女王卑弥呼などを含む統治者層の存在が見られました。このように弥生時代は、農耕を基盤とした社会制度と政治組織(初期国家)の萌芽期でした。
文化・宗教
弥生文化は、縄文とは大きく異なる実用的性格を持つ文化です。土器は薄手で硬質な弥生土器となり、貯蔵や煮炊きに適したシンプルな形状が主流です。磨製石器に加えて金属器(青銅器・鉄器)が大陸から伝来し、農具・武器・装身具に用いられました。青銅製の平形銅剣・銅矛、銅鐸などは権力者の威信財や宗教儀礼の道具と考えられます。精神文化面では、収穫を祈る農耕儀礼が重視されるようになり、方形周溝墓など埋葬施設の整備から祖先祭祀の発達もうかがわれます。文字はまだ伝わっていませんが、漢字が彫られた銅鏡や鉄剣が出土する例もあり、中国文明の影響が及び始めていました。祭祀遺跡から出土する絵画土器などには、稲作や祭りの様子が描かれており、弥生人の世界観の一端を知ることができます。
国際関係
弥生時代は日本史上初めて対外関係が記録に現れる時代です。大陸との交流が活発化し、稲作や金属器の伝来自体が中国大陸や朝鮮半島からの人々・技術の伝播によるものです。考古学的にも、北部九州の遺跡からは朝鮮系土器や中国鏡が発見され、海を介した交流が裏付けられています。外交史料として注目されるのが中国の歴史書で、1世紀の『漢書』地理志に西暦57年の「漢委奴国王」金印下賜の記事が見られます。この金印は江戸時代に福岡で発見され実物が現存しており、当時の倭の小国が後漢に朝貢していたことを示す国際関係の証拠です。また3世紀の『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝)には女王卑弥呼が魏に使節を送り「親魏倭王」の称号や銅鏡を賜った記録があり、日本列島内の政治的統合と中国王朝との外交関係が窺えます。このように弥生時代後期には東アジア国際秩序の中に倭が登場し始めており、倭国の諸勢力は大陸との交易・外交を通じて武器や文明を取り入れていきました。
代表的な史料
弥生時代の実像を伝える史料としては、まず考古遺物があります。佐賀県吉野ヶ里遺跡は環濠集落の跡が良好に保存され、高床倉庫や物見櫓の復元を通じて当時の暮らしを伝えます。また登呂遺跡(静岡県)からは水田跡や高床倉庫が発掘され、稲作農村の様子が確認できます。北部九州から近畿にかけて出土する銅鐸・銅剣・銅矛は弥生社会の権力構造や祭祀を物語る貴重な史料です。文字史料としては、上述の中国正史の記述が最初期の文献資料です。『漢書』『後漢書』『魏志倭人伝』の倭国記事は短いながらも当時の倭の様子(奴国や邪馬台国、卑弥呼など)を伝える唯一の同時代記録です。この他、2世紀末頃に書かれたとされる『漢委奴国王印』(金印そのもの)も史料的価値を持ちます。弥生時代は考古学と文献史学双方の資料が乏しいため、それらを突き合わせて復元が試みられている段階です。
Key Takeaways: 弥生時代は稲作農耕の開始によって食料生産が飛躍し、社会構造が大きく変化しました。各地にクニと呼ばれる小国家が生まれ、身分階層化が進みました。金属器の使用や大陸文化の影響を受け、祭祀や戦争も行われるようになります。中国史書に倭が登場するなど対外関係も始まり、日本史が文献に記録される時代となりました。
RDFトリプル:
- 〈弥生時代, 存続期間, 紀元前10世紀頃〜3世紀中頃〉
- 〈弥生時代, 特徴, 水稲農耕の開始と青銅・鉄器の使用〉
- 〈奴国, 後漢より金印受領, 57年〉
固有名詞辞書: 弥生時代 (やよいじだい, Yayoi period) - 稲作農耕が広まった日本の先史時代(紀元前約5世紀〜紀元後3世紀)。「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん) - 後漢の光武帝が倭の奴国に与えた金印。
古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)
時代の定義・年代
古墳時代は、大規模な墳丘墓である古墳の築造が各地で盛んに行われた時代です。3世紀中頃に奈良盆地に出現した前方後円墳を嚆矢(こうし)とし、以後7世紀末まで日本列島各地で様々な形態の古墳が築かれました。中でも全長100mを超える巨大古墳の出現は、広域統合された権力者の存在を示唆します。時代は古墳の形態変化から前期(3世紀中頃〜4世紀)、中期(5世紀)、後期(6〜7世紀)に区分され、特に中期には畿内を中心にヤマト政権と呼ばれる政治連合が成立したと考えられています。ヤマト政権の統治下で「倭の五王」が中国に朝貢した記録(『宋書』倭国伝)があり、6世紀末までに国内はほぼ統一国家の体制へ移行していきました。
社会・政治
古墳時代には大和地方の首長層(豪族)が台頭し、各地の豪族を統合する政治連合が形成されました。古墳は権力者の墓であり、大きなものほど被葬者の政治的地位を物語ります。中でも大阪府にある仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)は全長約486mの世界最大級の墳墓で、5世紀のヤマト政権の絶大な権力を象徴しています。社会構造は豪族を頂点に氏姓制度(氏族に姓(かばね)を与える身分制度)が整備され、豪族たちはヤマト政権の下で役割分担(臣・連などの称号)を与えられていきました。各地の首長たちはヤマトの大王(おおきみ)に服属し、朝廷の一員として地方統治にあたるようになります。一方で、豪族間の争いやクーデターも起こり、権力構造は流動的でした。4〜5世紀に中国の南朝に朝貢した「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)はヤマト政権の大王と推定され、朝貢制度を通じて大陸から官職称号を得ることで国内統治の正統性を高めようとしました。古墳時代後期には、地方豪族にも有力な者が現れ、畿内中心から地方分権化する兆しが見えますが、最終的には6世紀末〜7世紀に中央集権的な国家体制(律令国家)の基盤が築かれていきます。
文化・宗教
古墳時代の文化は、豪族文化とも言える特色を持ちます。副葬品には鉄製武器・甲冑や馬具、銅鏡、玉類などが納められ、武人的性格や霊的権威が重視されていたことがわかります。中でも5世紀には騎馬文化の流入が指摘され、武人たる豪族の威信財として馬具・武具が豊富に出土します。また、古墳の墳丘上や周囲には埴輪(素焼きの土製品)が並べられました。円筒埴輪や家・器財・人物・動物を象った形象埴輪があり、当時の装束や風俗を現在に伝えています。6世紀には朝鮮半島から仏教伝来(538年[552年とも])があり、蘇我氏らが仏教を受容して寺院建立を始めたことは文化史上画期的です。これに伴いそれ以前の土着信仰(八百万の神を祀る神道)は仏教と共存する形で存続していきます。文字の使用も徐々に始まり、金石文(例えば稲荷山古墳出土の鉄剣銘や江田船山古墳出土鉄刀銘)に漢字が刻まれた例があります。ただし文献編纂はまだ先であり、この時代の出来事は後世に記された『古事記』『日本書紀』の神代・伝承の記述によって伝えられました。
国際関係
古墳時代、日本列島は朝鮮半島や中国大陸との関係を一層深めました。4世紀末〜5世紀には、高句麗好太王碑(広開土王碑)の刻文に倭国が朝鮮半島南部で交戦した記録が残っていま。倭軍は百済・新羅といった韓半島諸国との関係を持ち、ときに軍事介入しときに交流を結びました。倭の五王が中国南朝に朝貢し冊封を受けたのもこの時期で、倭は「倭国」として東アジアの国際秩序に組み込まれていきます。一方、朝鮮半島からは大量の技術者・知識人が渡来し、ヤマト政権に仕えました。漢字、儒教、先進技術などが彼らによって伝えられ、これが飛鳥奈良時代の国家形成に大きく寄与します。6世紀末には隋が中国を統一し強大化すると、ヤマト政権内でも中央集権的改革の機運が高まり、外交方針も対等外交路線へ転換します(小野妹子ら遣隋使の派遣開始は600年)。古墳時代は、倭が周辺諸国と戦略的関係を築き、後の律令国家が外交主体となる土台を築いた時代でした。
代表的な史料
古墳時代の史料として重要なのは、各地の古墳そのものと出土遺物です。大仙陵古墳(大阪府)・応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳、大阪府)・稲荷山古墳(埼玉県)・江田船山古墳(熊本県)などからは、被葬者の権力を示す鉄剣・甲冑・ガラス小玉などが多数見つかっています。稲荷山古墳出土鉄剣には115文字の漢字が刻まれており、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)=雄略天皇を指すと解釈される銘文があることから、5世紀ヤマト政権の実在を示す貴重な史料です。また広開土王碑(中国吉林省)や宋書倭国伝など国外の記録も古墳時代の政治を知る手がかりです。日本国内では、8世紀編纂の『古事記』(712年)・『日本書紀』(720年)に古墳時代の出来事が神話や伝承を交えて記されています。例えば日本書紀には応神天皇〜推古天皇期の記事として、倭の五王に関する記述や仏教伝来の年次(552年癸未)などが載せられており、考古資料や中国史料と照合することで一定の史実を抽出することが試みられています。
Key Takeaways: 古墳時代は大王を中心に豪族が連合し、初期国家が形作られた時代です。巨大古墳の築造によって権力の存在が示され、氏姓制度に基づく支配秩序が整えられました。朝鮮半島や中国との交流が活発化し、倭の五王の朝貢や仏教伝来など国際関係にも重要な動きがありました。考古学的遺物と後世の記録を組み合わせて復元される、歴史形成期の時代です。
RDFトリプル:
- 〈古墳時代, 存続期間, 3世紀中頃〜7世紀末〉
- 〈ヤマト政権, 支配, 豪族連合による畿内中心の初期国家〉
- 〈倭の五王, 中国朝貢, 5世紀南朝に朝貢し官職授与〉
固有名詞辞書: 古墳時代 (こふんじだい, Kofun period) - 大型の古墳が築かれた時代で、ヤマト政権による統合が進んだ。倭の五王 (わのごおう) - 中国南朝に朝貢した5世紀の倭国王。埴輪 (はにわ) - 古墳上に置かれた素焼きの土製品。氏姓制度 (しせいせいど) - ヤマト政権下の豪族身分秩序制度。
飛鳥時代/奈良時代/平安時代(7世紀〜12世紀末)
時代の定義・年代
飛鳥時代(592年〜710年頃)、奈良時代(710年〜784年)、平安時代(794年〜1185年)は、日本の古代国家が形成・発展し、やがて貴族社会が成熟していった時期です。飛鳥時代は推古天皇の即位(592年)から大化改新(645年)、壬申の乱(672年)などを経て奈良遷都(710年)までの過渡期で、中央集権国家成立の準備期と位置付けられます。奈良時代は藤原京から平城京へと都が定まり、律令制国家が確立した時代です。平安時代は桓武天皇の平安京遷都(794年)に始まり、鎌倉幕府成立(1185または1192年)または平氏政権滅亡(1185年)まで続きます。この期間、日本最初の本格的都城での統治と貴族文化の爛熟が見られ、「古代」の完成期と言えます。
社会・政治
7世紀から8世紀にかけて、日本は飛鳥・奈良の地で中央集権的な律令国家を建設しました。大化改新(645年)では中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが蘇我氏を倒し、公地公民制や班田収授法など改革詔を発しています。白村江の戦い敗北(663年)後の危機感もあり、天武天皇は壬申の乱を経て天皇主導の統治体制整備を進めました。飛鳥浄御原令の制定や八色の姓の導入などを経て、持統天皇の時代(7世紀末)に藤原京への遷都が行われています。奈良時代には律令法(大宝律令701年、養老律令757年)が施行され、太政官・神祇官を頂点とする官僚機構のもと全国を統治しました。地方は国・郡・里に区画され、戸籍に基づく班田(口分田支給)と租庸調の税制がしかれました。政治の実権は天皇と貴族が握り、特に藤原氏は外戚関係を背景に台頭します。平安時代に入ると政治形態は変容し、桓武・嵯峨天皇期の勅撰による改革(勘解由使設置や班田の緩行化など)の後、9世紀後半以降は藤原北家による摂関政治が展開しました。摂政・関白となった藤原道長・頼通父子が典型で、天皇家を後見する形で政権を主導します。地方では10世紀以降、中央の統制力低下により荘園が拡大し、受領層や地方豪族が実権を持つようになります。11世紀後半に白河上皇が院政を開始し、摂関家の力を凌ぐ新たな政治形式が生まれました。平安末期には源平の武士勢力が台頭し、貴族政治から武家政治への移行期を迎えます。このように飛鳥〜平安期は律令制の確立と崩壊、貴族政治の興隆と変質の過程でした。
文化・宗教
飛鳥・奈良・平安時代は古代文化が開花した時代です。飛鳥時代には仏教が国家的に保護され、蘇我氏が建立した飛鳥寺や、聖徳太子が建立した法隆寺(607年創建)などが造営されました。仏教と政治が結びついた鎮護国家思想が芽生え、奈良時代には聖武天皇が東大寺大仏(盧舎那仏)を建立(752年開眼)して国家の安泰を祈念しています。奈良時代は天平文化が栄え、唐の影響を色濃く受けた国際色豊かな文化が宮廷や寺院を中心に花開きました。正倉院に伝わる楽器・調度品や、『万葉集』(759年完成)に代表される和歌文学などにその繁栄が反映されています。平安時代に入ると、国風文化と称される日本的な文化が成熟しました。遣唐使の廃止(894年)以降、中国文化の影響が相対的に減少し、ひらがな・カタカナの発明(9世紀初め)によって国語での文学創作が盛んになります。紫式部『源氏物語』、清少納言『枕草子』、紀貫之『土佐日記』などの名作が生まれ、貴族女性もかな文学で才能を発揮しました。宗教面では、奈良時代の南都六宗に加え、平安初期に最澄・空海が唐から天台宗・真言宗を伝え、それぞれ比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺を拠点に密教を広めました。平安中期以降は阿弥陀仏への信仰(浄土教)が貴族や庶民に浸透し、来世への往生を願う念仏が流行します。こうした文化の変遷により、和様の美意識やかな文字といった日本的伝統が確立されたのが平安時代です。
国際関係
飛鳥〜奈良期、日本は積極的に中国・朝鮮との交流を図りました。遣隋使(600〜614年)・遣唐使(630〜894年)が派遣され、唐の先進制度や文化を取り入れています。遣唐使派の犬上御田鍬(630年)以来、阿倍仲麻呂や最澄・空海など数多の留学生・留学僧が渡唐し、知識や技術を持ち帰りました。また朝鮮半島では唐と新羅の勢力が統一を果たし(668年)、日本は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗北して以降、防人の設置や水城構築など防衛策を強化します。一方で難民として渡来した百済・高句麗の遺民や技術者は、日本の文化発展に寄与しました。奈良時代は国際都市・平城京に唐人・新羅人も居住し、正倉院の宝物にはペルシャやインド由来のガラス器などシルクロード経由の舶来品が含まれます。遣唐使の停止(894年)は周知の通りですが、それは唐の衰退や航路の危険化、そして国内文化成熟によるものです。平安時代を通じ、公式な外交使節は途絶えましたが、中国(宋・遼)や新羅・高麗との民間貿易は細々と継続されました。日宋貿易で宋銭や書籍がもたらされ、藤原頼通らも唐物を愛好しています。国際関係的には平安期は相対的な鎖国的安定期でしたが、宋や渤海との交易・通信は続きました。12世紀末には平清盛が大輪田泊(兵庫)で日宋貿易を振興し、多額の富を得ています。このように飛鳥〜平安時代は、前期に積極的な輸入・交流、後期に日本独自路線への転換という対外政策の転機がありました。
代表的な史料
この時代は日本初の編纂史書や文学作品が数多く作成されました。歴史史料として、『古事記』(712年)は神代から推古天皇までの物語を記し、『日本書紀』(720年)は神代から持統天皇までを編年体で記した正史です。いずれも飛鳥〜奈良期の政治や外交を知る基本史料となっています。また続日本紀以下平安朝の六国史(計六つの正史)は光仁天皇から醍醐天皇(887年)までの記録を残しました。法律史料としては大宝律令・養老律令の条文や、貴族社会の儀礼を定めた『延喜式』があります。奈良・平安期の写経や木簡、古文書も一次史料です。例えば正倉院文書や大宰府木簡などから当時の行政実務を窺うことができます。文学も史料価値が高く、万葉集(8世紀後半成立)は天皇から庶民までの和歌4500首余を収録し、社会史研究にも用いられます。平安文学では『源氏物語』『枕草子』の他、紀行文『更級日記』や歴史物語『大鏡』、説話集『今昔物語集』などが当時の世相を映す史料です。宗教史料としては、現存世界最古の木造建築である法隆寺(世界遺産)や、東大寺の大仏、平等院鳳凰堂(1053年建立)など建築物・仏像そのものが当時の信仰と美術の証拠です。こうした文献と遺物の豊富さは古代日本の姿を多面的に理解する助けとなっています。
Key Takeaways: 飛鳥・奈良時代にかけて律令国家が成立し、天皇中心の中央集権体制が整備されました。平安時代には貴族政権のもと国風文化が成熟し、日本的な文学や美術が花開きました。仏教は国家と結びついて発展し、後には密教や浄土教も浸透しました。外交面では遣唐使により積極的に大陸文化を摂取し、やがて独自路線へ移行しています。数々の史書や文学作品が編まれたことで、この時代の歴史像を詳しく知ることが可能になりました。
RDFトリプル:
- 〈大化の改新, 年代, 645年〉
- 〈平安京, 遷都, 794年〉
- 〈摂関政治, 全盛期, 10世紀末〜11世紀〉
固有名詞辞書: 飛鳥時代 (あすかじだい, Asuka period) - 日本の古代国家成立期(推古朝から奈良遷都まで)。奈良時代 (ならじだい, Nara period) - 平城京を都とした時代。平安時代 (へいあんじだい, Heian period) - 平安京遷都から鎌倉時代直前までの約400年間。律令国家 (りつりょうこっか) - 律令法に基づく中央集権国家体制。摂関政治 (せっかんせいじ) - 藤原氏が摂政・関白として行った政治。遣唐使 (けんとうし) - 唐に派遣された公式使節。
鎌倉時代/室町時代/戦国時代/安土桃山時代(12世紀末〜16世紀末)
時代の定義・年代
鎌倉時代(1192年~1333年)は源頼朝が鎌倉幕府を開いて始まる武家政権の時代です。室町時代(1336年~1573年)は足利尊氏が室町幕府を開いてから、15世紀後半の応仁の乱(1467年)を経て、織田信長により将軍・足利義昭が追放されるまでを指します。戦国時代(15世紀中頃〜16世紀後半)は室町幕府の権威が衰え下剋上が横行した時期で、明確な開始・終了年は定まりませんが、応仁の乱以降〜織田信長の上洛(1568年)までを指すことが多いです。安土桃山時代(1573年~1600年)は織田信長・豊臣秀吉による天下統一事業と桃山文化の時代で、関ヶ原の戦い(1600年)または豊臣政権滅亡(1615年)までを区切りとします。これら中世〜近世移行期の時代区分は重なり合いますが、本節では鎌倉から安土桃山まで一連の武家の時代として概説します。
社会・政治
鎌倉時代に日本初の本格的武家政権が成立しました。源頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開きます(1185年または1192年)。幕府は将軍を頂点に、御家人(将軍に御恩と奉公で仕える武士)を組織し、京都や九州に守護・地頭を設置して軍事・警察権を掌握しました。朝廷は京都に存続しましたが、実質的な支配は鎌倉幕府と東国武士団が担います。13世紀後半、執権北条氏が実権を握る中、元寇(1274年・1281年)を撃退しましたが恩賞不足で御家人の不満が高まり、後醍醐天皇の討幕運動へ繋がります。1333年、鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政を経て、1336年に足利尊氏が室町幕府を樹立しました。室町幕府は当初京都に政権を置き、地方統治は守護大名に委ねる形で成立しました。3代将軍足利義満の頃(14世紀末)に権威は最高潮に達し、南北朝合一(1392年)を実現、明との勘合貿易も開始しています。しかし将軍権力は徐々に弱まり、応仁の乱以降は戦国時代へ突入します。戦国期には各地の守護大名や新興の戦国大名が独立政権を打ち立て、下剋上が頻発しました。領国支配のため分国法(戦国大名が制定した独自の法)を整備し、領内経営に努めています。16世紀後半、織田信長が中央進出し、室町幕府を滅ぼして全国統一を目指しました。信長・豊臣秀吉の天下統一事業により、戦国大名の勢力は次々平定され、秀吉の全国支配が確立します(1590年)。秀吉は刀狩や太閤検地を断行して兵農分離を進め、全国を大名に改易・配封する体制(太閤蔵入地制度)を敷きました。しかし秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して実権を握り、1603年に江戸幕府を開きます。以上、鎌倉から安土桃山に至る政治の流れは、武士による封建体制の確立と再編、そして天下統一による中央集権復活への過程と位置付けられます。
社会・経済
武家時代の社会は、身分秩序が武士を頂点に再構築されました。鎌倉期には御恩と奉公の主従関係が御家人社会を結束させ、惣領制(血縁的家父長制)による所領相続が行われました。荘園公領制の中で、荘園の年貢徴収を請け負う地頭の支配が強まりました。室町期になると商工業や流通も発達します。京都・博多・堺などでは自治都市が成立し、土倉・酒屋などの富裕層や座と呼ばれる同業者組合も現れました。貨幣経済も浸透し、明銭(永楽通宝)などの銭貨が流通します。戦国期の動乱は農村にも影響を与え、領主に対する農民の土一揆や自治的村落共同体「惣村」の形成が進みました。また一向一揆(浄土真宗本願寺門徒による一揆)のように宗教勢力と結びついた下層民衆の蜂起もあり、加賀一向一揆は国を支配するほどの規模になりました(1488年〜)。安土桃山期には織豊政権のもと、貨幣経済がさらに活発化し、楽市・楽座令により商業の自由化が図られています。城下町が各地に作られ、市場経済と流通網が全国規模で発展しました。ポルトガル人の来航(1543年)以降は南蛮貿易が始まり(鉄砲・火薬・生糸の輸入と銀の輸出が中心)、キリスト教も伝来しました。秀吉は1590年代に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行い、明・朝鮮との国際関係にも影響を及ぼしています。総じて中世後期から安土桃山期の社会経済は、封建領主による分権的秩序の中で自治と独立が混在しつつ、戦乱をへて統一政権の下で再編成されていったと特徴付けられます。
文化・宗教
鎌倉時代の文化は、質実剛健な武家文化が台頭しました。和歌では藤原定家らによる『新古今和歌集』(1205年)が編纂される一方、武士階層から『平家物語』のような軍記物語が語られ、琵琶法師により広まりました。禅宗(臨済宗・曹洞宗)が中国宋から伝来し、幕府の保護で広まります。栄西や道元が開いた禅宗寺院は、武士の精神文化に影響を与えました。宋の影響下で建てられた建長寺や円覚寺などの禅寺建築、宋画風の水墨画も輸入されます。また法然・親鸞・一遍らによる浄土教・時宗、日蓮による日蓮宗など、日本的な新仏教が民衆の間に広がったのも鎌倉期の特色です。室町時代には公家文化と武家文化が融合し、東山文化(15世紀)と桃山文化(16世紀)が花開きました。足利義政の頃の東山文化は、簡素なわび・さびの美学が尊ばれ、銀閣に象徴される書院造建築や、雪舟による水墨画、村田珠光が大成した茶の湯(わび茶)の興隆が見られます。一方、桃山文化は天下人の権威を映す豪華絢爛な文化で、安土城・大阪城・聚楽第に代表される城郭建築、大迫力の障壁画(狩野永徳の「唐獅子図屏風」等)、志野・織部・唐津などの陶磁器が発達しました(有田焼は17世紀初頭=江戸初期に佐賀県有田で創始)。また出雲阿国による歌舞伎踊り(1603年頃、江戸初期の起源)や、南蛮文化の影響で洋式甲冑・天主堂建築など新しい要素も加わりました。宗教面では、一向宗(浄土真宗)が地方一揆の精神的支柱となり、またキリスト教が伝来(1549年にフランシスコ・ザビエル来日)して九州を中心に信者が増えました。秀吉は当初キリスト教に寛容でしたが、1587年にバテレン追放令を発し禁教に転じています。総じて中世後期の文化は、武士と民衆の力が生んだ実利的・躍動的文化であり、安土桃山期にはそれが極彩色の華として結実したといえます。
国際関係
鎌倉時代、日本は対外的には比較的閉鎖的安定期でしたが、例外的にモンゴル帝国(元)からの二度の襲来(元寇)という大事件がありました。これを退けたことで日本は外国支配を免れ、その後約300年にわたり海外からの侵攻を受けることはありませんでした。一方、宋・元との正式な国交はなくとも、中国商人との私貿易は細々と続いており、元寇の一因も私貿易断絶への不満とされています。室町時代になると、足利義満が明との間に勘合貿易(日明貿易)を開始し、将軍の権威付けと利益獲得を図りました。日本からは銅・硫黄・刀剣などを輸出し、明からは宋銭・生糸・書画などが輸入されています。朝鮮半島では高麗に代わって朝鮮王朝(李氏朝鮮、1392年)が建国されると、室町幕府も使節を派遣し、日朝貿易が行われました。しかし15世紀後半から倭寇(日本や東アジアの海賊)が活発化すると、明や朝鮮との関係は緊張し、日明貿易は中断します。16世紀、ポルトガル人が種子島に漂着(1543年)し鉄砲を伝えたのを機に、南蛮貿易が始まりました。平戸や長崎の港にはポルトガル・スペイン船が来航し、ヨーロッパの文物やキリスト教がもたらされました。織田信長・豊臣秀吉も南蛮貿易を保護し、特に博多や堺を経由した中国(明)との貿易も盛んでした。1580年代に入ると、秀吉は唐入り(明征服)の野望を抱き、まず朝鮮に対して服属を要求します。交渉決裂後の文禄・慶長の役(1592〜1598年)では朝鮮に大軍を派兵しましたが、明・朝鮮の連合軍の抵抗と秀吉死去により撤退しました。この遠征で朝鮮半島から陶工らが日本に連行され、のちの有田焼など焼き物産業興隆につながっています。安土桃山時代末、日本は一時的に国際戦争の当事者となりましたが、江戸幕府成立後は再び鎖国政策へと舵を切ることになります。
代表的な史料
鎌倉〜安土桃山時代は、多彩な史料が現存しています。軍記物として『平家物語』は源平争乱を語り伝える必読史料ですし、南北朝の動乱を描いた『太平記』、戦国時代を記録した『信長公記』などが挙げられます。公的な記録では、鎌倉幕府の法典『御成敗式目』(貞永式目1232年)は日本最初の武家法であり、武家社会の法制を知る上で重要です。室町幕府関連では、『建内記』(斯波義廉の家宰・大舘尚衡の日記)や『薩戒記』(義教の側近の日記)など将軍周辺の記録があります。戦国大名の制定した分国法(甲州法度之次第、今川仮名目録など)も領国統治の様子を伝える貴重な史料です。一方で、中世の庶民生活を知るには、東国農民の訴状をまとめた『沙汰未練書』や、寺社が発給した売券・棟札など古文書が有用です。また一遍上人絵伝や洛中洛外図屏風のような絵画史料も当時の風俗を細密に伝えています。安土桃山期では、宣教師が日本で見聞した記録(ルイス・フロイス『日本史』、ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』等)が外国人の視点による一次資料です。豊臣政権の政策については、『天正大判』や『朱印状』など秀吉発給文書が数多く残り、朝鮮出兵の実録や停戦交渉文書も両国にあります。さらに織田信長自筆の書状や、石田三成らの書簡も発見されています。こうした武家政権や戦乱に関する多面的な史料群が、中世日本の歴史像を詳らかにする礎となっています。
Key Takeaways: 鎌倉時代に武士政権が誕生し、以後室町・戦国を経て安土桃山期に天下統一が達成されました。社会制度は荘園制から戦国大名の領国支配、そして織豊政権による再統一へと移行しました。文化は武士や民衆主体の実用的・力強い方向へ展開し、東山文化や桃山文化として結実しました。対外的には元寇の撃退や勘合貿易、南蛮貿易・キリスト教伝来、さらには朝鮮出兵など重大な出来事があり、日本の国際的立場も変化しました。
RDFトリプル:
- 〈鎌倉幕府, 成立, 1185年または1192年(諸説)〉
- 〈応仁の乱, 勃発, 1467年〉
- 〈天下統一, 完成, 1590年(豊臣秀吉による)〉
固有名詞辞書: 鎌倉幕府 (かまくらばくふ, Kamakura shogunate) - 源頼朝が鎌倉に開いた武家政権。室町幕府 (むろまちばくふ, Muromachi shogunate) - 足利尊氏が京都に開いた武家政権(別名: 足利幕府)。戦国時代 (せんごくじだい, Sengoku period) - 下剋上と群雄割拠の時代。安土桃山時代 (あづちももやまじだい, Azuchi-Momoyama period) - 織田信長・豊臣秀吉の支配期。南蛮貿易 (なんばんぼうえき) - ポルトガル・スペインとの交易。分国法 (ぶんこくほう) - 戦国大名が領国内統治のため制定した法令。
江戸時代(徳川時代)(1603年〜1868年)
時代の定義・年代
江戸時代は、1603年に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いてから、1867年の大政奉還による幕府権力の終焉までの約265年間を指します。徳川氏15代にわたる長期平和と社会秩序の時代であり、「徳川時代」や「幕藩体制期」とも呼ばれます。幕府は江戸(現在の東京)に政庁を置き、将軍を頂点に全国の大名を統制しました。江戸時代はさらに前期・中期・後期に区分されることもあり、鎖国政策の確立期(17世紀前半)、社会の安定と元禄文化の成熟(17世紀後半〜18世紀)、幕政改革と動揺(19世紀)といった変化が見られます。1868年の明治維新により徳川政権は終焉し、江戸時代は幕を閉じます。
社会・政治
江戸幕府は武家政権の完成形として君臨し、強力な中央集権体制を築きました。全国の大名を統制するため、徳川家康は関ヶ原合戦後の領地配分で親藩・譜代・外様の序列を定め、武家諸法度(1615年制定)などの法令で大名の居城修築・婚姻などを厳格に規制しました。参勤交代制度(1635年制規化)によって大名は江戸と国元を1年交代で往復し、経済的・軍事的抑制を受けました。幕藩体制と称されるこの仕組みでは、幕府は全国を直轄領と約300藩に分割し、藩は領内の行政・司法・経済を統治する地方政府として機能しました。社会制度の特徴は士農工商の身分制度です。武士は支配身分として城下町に常住し、苗字帯刀を許されました。農民は本百姓と水呑に分かれ、村に居住して年貢を納め、町人(商人・職人)は都市で営業に従事しました。ただし実態としては士農工商の身分間にも経済力や生活の多様性があり、身分の融通も生じました。江戸時代を通じて幕府権力は盤石に見えましたが、18世紀後半以降になると財政難や百姓一揆の頻発、外交圧力の増大で動揺します。享保・寛政・天保の改革(それぞれ8代将軍徳川吉宗、老中松平定信、水野忠邦による改革)は財政再建や社会秩序立て直しを図りましたが、根本解決には至りませんでした。1853年のペリー来航以後、幕府は開国か攘夷かで対応に苦慮し、朝廷や雄藩の発言力が増します。結果的に大政奉還(1867年)と明治政府の成立により、幕府体制は自壊しました。総じて江戸時代の社会政治は、武士による平和統治と封建的身分秩序によって長期安定を保ちつつも、内外の変動に直面して次第に近代への転換を迫られた時代と言えます。
経済・生活
江戸時代は農業生産力の向上と市場経済の発展に支えられ、人口約3,000万人規模の成熟した封建社会が現出しました。農村では新田開発や灌漑整備が各地で行われ、米の石高は17世紀から18世紀にかけ飛躍的に増大しました。幕府・藩は年貢(米納)を主要財源とし、本百姓に高率の年貢負担を課しました。農民は貨幣経済の浸透により商品作物(綿花・染料・茶など)や副業(手工業品生産)にも取り組み、農村商品経済が発達します。商業は江戸・大阪・京都の三都を中心に大いに栄えました。大阪は「天下の台所」と称され全国の年貢米や特産品が集積・流通する経済の要でした。江戸も世界有数の人口(18世紀に100万人超)を抱える巨大都市に成長し、参勤交代で集まる武士需要や庶民消費に支えられて多様な市場が形成されました。貨幣は幕府鋳造の金銀貨が基軸となり、両替商が発達して金融業務も行われています。交通網も五街道をはじめ全国に延び、飛脚制度により情報も流通しました。18世紀以降、商品経済の発展につれて商人階級が台頭し、豪商は藩や旗本への貸付(札差)で財力を持ち、幕府の経済政策に影響を及ぼすこともありました。生活・文化面では、町人文化が開花しました。元禄文化(17世紀末)や化政文化(19世紀前期)に代表されるように、浮世草子(井原西鶴)や人形浄瑠璃・歌舞伎(近松門左衛門・市川團十郎)、俳諧(松尾芭蕉)、錦絵(葛飾北斎・喜多川歌麿)などの大衆文化が隆盛しました。識字率も相対的に高く、寺子屋や藩校で庶民教育・武士教育が行われています。農村部では相互扶助の村社会が結束していましたが、重税や天災に対しては百姓一揆や打ちこわしという形で抵抗も起こりました。江戸時代の経済発展は、皮肉にも幕府体制を内側から突き崩す原動力ともなり、富裕商人や知識人は封建秩序に不満を募らせ、尊皇思想や倒幕運動へと繋がっていきます。
対外関係
江戸幕府は初期を除き鎖国政策を採用しました。徳川家康~家光の時代、当初は積極的に海外交易を奨励し、1600年代前半には朱印船貿易で東南アジア各地に日本町ができるほどでした。しかしキリスト教の拡大を警戒した幕府は、キリスト教禁止(1612年〜)と外国人宣教師の追放を行い、島原の乱鎮圧(1637年)の後、幕令により貿易港と相手を限定しました。1641年以降、長崎の出島においてオランダと清(中国)に限った交易を認め、他のヨーロッパ諸国や日本人の海外渡航・帰国を禁止しました。この体制を後世「鎖国」と呼びます。ただし完全な閉鎖ではなく、長崎貿易を通じて欧米の科学技術(蘭学)や情報は流入し、薩摩藩は琉球王国を通じて清と、対馬藩は朝鮮と、松前藩はアイヌ(蝦夷地)とそれぞれ交流を持っていました。朝鮮通信使は将軍就任ごとに来日し、琉球からは慶賀使が江戸に派遣されています。18世紀末になるとロシア帝国が南下し通商を求め、近海に外国船が出没し始めます。幕府は海防の必要に迫られ、異国船打払令(1825年)を出すも、アヘン戦争(1840年)で清が敗れると方針転換し、薪水給与令(1842年)で柔軟策を取りました。ついに1853年、アメリカのマシュー・ペリーが浦賀に来航し開国を要求、翌1854年の日米和親条約で鎖国は終わりを告げます。1858年には日米修好通商条約が締結され(安政五カ国条約)、日本は不平等条約下で横浜など開港場を通じた貿易を開始しました。開国後、列強の圧力に幕府の統治体制は耐えられず、尊王攘夷運動や倒幕運動が活発化します。結果的に幕府は政治権力を朝廷に返上し(大政奉還)、新政府による近代国家建設へと舵が切られました。江戸時代の鎖国政策は、約2世紀半にわたり外国干渉を排除して国内の平和を維持した一方、開国時に制度疲労と技術的遅れを露呈する要因ともなったのです。
代表的な史料
江戸時代は文書・記録の量が飛躍的に増大した時代で、極めて多くの史料が利用可能です。法令では江戸幕府の基本法典『公事方御定書』(1742年)や、武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定法があります。外交関連では条約正文や将軍・大名の外交書簡、オランダ風説書(海外事情報告)などが残ります。行政文書としては、江戸幕府の日記・公用記録類(『御触書集成』『評定所留』など)、各藩の郷帳・藩法、村の庄屋文書などが一次資料です。例えば田中丘隅『民間省要』や新井白石『折たく柴の記』は当時の施政・社会を知る随筆です。人口動態を示す宗門改帳・五人組帳や、経済状況を物語る商品相場表など細かなデータも蓄積されています。個人の記録では、松浦静山『甲子夜話』、幕末志士の書簡(勝海舟・西郷隆盛往復書簡等)、庶民の日記(近世庶民の日記「秋田蘭画」など)も興味深い史料です。出版文化も発達し、歴史書では『大日本史』(水戸藩編纂)や『誠蒙記』(幕末の記録)など、地誌では全国の村々についてまとめた『旧高旧領取調帳』、蘭学書では杉田玄白『解体新書』や前野良沢『蘭学事始』等があります。絵画資料も膨大で、肖像画・浮世絵・錦絵に当時の風俗・事件が描かれています。たとえば「黒船来航図」や「皇国深切図」(ペリー来航風刺画)などは開国時の世相を映しています。さらに明治政府による幕末維新の公文書(太政官布告や王政復古の詔書、大政奉還上表文等)も江戸時代の政治終焉を示す一級史料です。このように江戸期の史料はおびただしい量に上り、研究者・愛好家によって今なお読み解かれ続けています。
Key Takeaways: 江戸時代は徳川幕府の統治下、武士を頂点とする身分制度と封建的秩序により約260年の平和が維持されました。鎖国政策のもと海外との交流を制限しつつも、国内では経済発展と都市文化の爛熟が進みました。18世紀後半以降、財政難や社会不安、欧米諸国の圧力に直面し、開国によって幕府体制は瓦解します。幕末の動乱を経て明治維新が断行され、日本は近代国家へと転換しました。
RDFトリプル:
- 〈江戸幕府, 成立, 1603年〉
- 〈鎖国, 完成, 1639年〉
- 〈ペリー来航, 年代, 1853年〉
- 〈大政奉還, 実施, 1867年〉
固有名詞辞書: 江戸時代 (えどじだい, Edo period) - 徳川幕府による統治時代(1603–1868年)。幕藩体制 (ばくはんたいせい) - 幕府と藩が全国を統治した江戸期の政治体制。参勤交代 (さんきんこうたい) - 大名が江戸と領国を往復した制度。鎖国 (さこく) - 江戸幕府の外交封鎖政策。開国 (かいこく) - 1854年の日米和親条約以降の外国との通商開始。明治維新 (めいじいしん) - 1868年前後の政治・社会の大改革(王政復古による近代国家成立)。
近代:明治維新と立憲国家(19世紀後半)
時代の定義・年代
近代日本は通常、1868年(明治元年)の明治維新に始まり、第二次世界大戦終了(1945年)までを指します。そのうち明治時代(1868年〜1912年)は近代国家の建設と帝国主義的発展の時期です。本節では特に明治維新から立憲国家の確立(19世紀後半、〜1890年前後)までを取り上げます。1868年の戊辰戦争を経て明治政府が成立し、江戸から東京への遷都、廃藩置県(1871年)など諸改革を断行しました。1889年には大日本帝国憲法の発布、1890年に帝国議会の開設と、立憲君主制の国家体制が整えられます。この明治前期は、日本が急速な西洋化と富国強兵策を推し進め、列強の一員へ歩み出した激動期です。
政治・制度の改革
明治政府は王政復古のクーデター(1867年)によって成立し、徳川幕府に代わり薩摩・長州など倒幕派雄藩の主導で新国家を築きました。新政府は明治天皇のもとで五箇条の御誓文(1868年)を発布し、開明的国是を示します。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」に始まる御誓文は、封建的な有司専制を改めて国民参加の政治を目指す宣言でした。維新政府は次々と近代化施策を打ち出します。廃藩置県(1871年)によって藩を廃止し府県を設置、中央集権体制を確立しました。華族・士族・平民の四民平等を掲げ、身分制度も解体されます。徴兵令(1873年)は満20歳以上の男子に国民皆兵の義務を課し、近代軍隊を創設しました。土地制度では地租改正(1873年)を断行し、土地の私有を認めつつ地券を発行し、地価の3%を金納させる地租としました。行政機構では太政官制のもと薩長出身者が要職を占め、版籍奉還後に大名を華族に列し、藩士は士族としました。秩禄処分(1876年)で士族への家禄支給を廃止し、特権階級を解体しています。1870年代後半には士族反乱(西南戦争1877年など)が起きましたが、近代的徴兵軍によって鎮圧されました。外交上は不平等条約の改正交渉を試みつつ、樺太・千島交換条約(1875年)などで北方国境を画定しました。明治十四年の政変(1881年)後、自由民権運動の高まりを受けて政府は国会開設を約束し、伊藤博文らはドイツ(プロイセン)憲法を範に憲法制定作業を進めます。そして1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。天皇主権・立憲君主制を定めたこの憲法により、皇室・議会・内閣・司法の諸制度が法律で規定され、近代立憲国家の体制が整いました。翌1890年には第一回帝国議会が開かれ、衆議院・貴族院からなる議会政治が始動します。以上、明治維新から1890年前後までに、日本は封建制から中央集権的近代国家へ急速に移行したのです。
社会・経済の近代化
明治政府のスローガンは「富国強兵」「殖産興業」でした。欧米列強に肩を並べるため、経済の発展と軍事力強化を最優先課題としたのです。政府主導で近代産業の育成が図られました。お雇い外国人を招いて技術を導入し、官営模範工場(富岡製糸場1872年、北海道開拓使工業施設など)を各地に設立しました。鉄道は1872年に新橋〜横浜間で開通、電信線も主要都市間に敷設され、通信・交通網が整備されます。1870年代には国立銀行条例を公布し、第一国立銀行など銀行制度の基礎を作りました。1880年代には松方正義の緊縮財政で通貨を引き締め、1897年の金本位制導入へとつながります。その結果、農村はデフレで疲弊し、小作農への転落や自由民権運動への参加が見られました。だが一方で安価な農産物・生糸の輸出が伸び、国内では製糸業・繊維業が発展します。殖産興業の成果として、紡績・鉄鋼・造船など重工業分野も日清戦争前夜までに官営事業を民間払い下げする形で興り、三井・三菱などの財閥資本が台頭しました。社会制度の変革も劇的でした。学制公布(1872年)により近代学校教育がスタートし、男女混合の小学校就学が奨励されました。しかし初期は徴兵令や地租改正への反発(血税一揆など)も各地で発生しました。文明開化の風潮の中、人々の生活様式も変化します。太陽暦・時刻制度の採用(1873年)や、衣服の洋装化、ざんぎり頭・鹿鳴館に象徴される欧化政策など、新旧の価値観が混在しました。自由民権運動は板垣退助らが結成した愛国社・自由党(1881年)や大隈重信の立憲改進党(1882年)などを通じて国会開設と憲法制定を民衆から促し、言論・新聞も活発化します。政府は弾圧と懐柔を交えつつ、結果的に立憲制導入へ舵を切りました。19世紀末までには、日本はアジアでは例のない産業化と立憲制の導入を成し遂げ、列強の仲間入りを目指す基盤を築いたのです。
対外関係と帝国主義への歩み
明治政府は不平等条約の改正と国際的地位向上を外交の最重要課題としました。当初は欧米列強への追従を図る文明開化路線で、岩倉使節団(1871〜73年)を派遣して条約改正を模索しましたが成果なく、むしろ欧米視察で内治優先が確認されます。政府内では征韓論争(1873年)が起こり、西郷隆盛ら強硬派は朝鮮への武力使節派遣(開国要求)を主張しましたが、大久保利通・木戸孝允らは内政優先としてこれを抑えましたndl.go.jp。征韓派の下野により不平士族の反乱が続発しましたが、西南戦争後は政府も対外膨張に転じます。琉球処分(1879年)で琉球王国を廃して沖縄県を設置し、清との間に緊張が生じました。朝鮮には日朝修好条規(1876年)を結んで開国させ、釜山などに租借地を獲得します。1880年代の条約改正交渉は難航し、大隈外相がテロで負傷(1889年)する事件もありましたが、1894年陸奥宗光外相のもと治外法権撤廃に成功しますndl.go.jp。同年、朝鮮をめぐる対立から日清戦争が勃発し、日本軍は勝利して下関条約(1895年)で台湾・澎湖諸島を割譲させ、巨額の賠償金を得ましたndl.go.jp。これは日本が初めて近代戦争で列強に肩を並べた出来事でした。しかし遼東半島獲得は三国干渉(露・仏・独)で清へ返還を余儀なくされ、以後日本の対露感情が悪化します。列強の帝国主義競争に加わるため、日本も軍拡と同盟外交を推し進め、1902年には日英同盟を締結しましたndl.go.jp。そして1904年、満洲・朝鮮の覇権をめぐり日露戦争が勃発しますndl.go.jp。日本は苦戦の末に講和(ポーツマス条約1905年)で勝利を収め、韓国に対する指導権や南満洲の利権、樺太南半の領有などを得ましたndl.go.jp。1905年、日本は韓国を保護国化し、1910年には韓国併合を強行して植民地としました。こうして明治末期には日本帝国は台湾・朝鮮を統治下に置く帝国主義国家となり、一方で国内では日露戦争の講和条約に不満な国民が暴動(日比谷焼打ち事件1905年)を起こしています。以上、19世紀後半の日本は条約改正の達成、清・ロシアとの戦争勝利、植民地獲得と列強の仲間入りなど、短期間で国際的地位を飛躍的に高めた時代でした。
代表的な史料
明治維新期から19世紀末にかけては、近代史料が豊富に残されています。政治関係では「五箇条の御誓文」(1868年)や「五榜の掲示」、大政奉還上表文(1867年)など維新の基本史料があります。明治新政府の太政官布告類、廃藩置県の詔勅、徴兵令布告など官報(太政官日誌)に掲載された法令も重要です。大日本帝国憲法原本および緞帳や、憲法草案(伊藤博文らの私案)、帝国議会の会議録(『帝国議会速記録』)も当時の政治を知る一次史料です。外交では、下関条約・ポーツマス条約・日韓併合条約などの条約正文、外交文書集『日本外交文書』に収録された公文書が基本です。陸奥宗光『蹇蹇録』や小村寿太郎の回顧録など外交官の記録も史料価値があります。自由民権運動関係では、板垣退助の演説草稿や民権結社の機関紙(『自由新聞』等)、加波山事件などの関係訴訟記録が残ります。産業面では、渋沢栄一の『商法会議所演説筆記』、各紡績会社の決算書、内務省の勧業報告などが挙げられます。統計資料としては『明治文化史』や各種統計年鑑に当時の経済・社会データがまとまっています。また写真技術の普及により、江戸から明治にかけての古写真(横浜写真など)も残っており、文明開化の世相を視覚的に伝えます。個人の日記・書簡では、西郷隆盛書簡、木戸孝允日記、大久保利通文書、福沢諭吉『西洋事情』、中江兆民『三酔人経綸問答』等、多様な観点の記録があります。新聞も明治初期から発行され、『東京日日新聞』『郵便報知新聞』など記事は当時の世論や事件を克明に伝えています。要するに明治前期の史料は公式文書から新聞・雑誌・個人文書まで極めて幅広く、近代日本の黎明期を裏付ける豊富な記録が後世に残されたと言えます。
Key Takeaways: 明治維新によって日本は急速に近代国家へと移行しました。中央集権体制の確立、四民平等・徴兵制・学制など諸改革により封建社会を解体し、1889年の帝国憲法制定と1890年の議会開設で立憲君主制国家が成立しました。富国強兵政策の下、産業経済も近代化し、欧米諸国に追いつくべく殖産興業が推進されました。外交面では条約改正と軍備増強を進め、日清・日露戦争に勝利して台湾・朝鮮を領有する帝国主義国家となり、国際社会での地位を飛躍的に向上させました。
RDFトリプル:
- 〈明治維新, 開始年, 1868年〉
- 〈大日本帝国憲法, 発布, 1889年〉
- 〈日清戦争, 講和条約, 下関条約(1895年)〉
固有名詞辞書: 明治維新 (めいじいしん, Meiji Restoration) - 1868年前後の政治・社会大改革。富国強兵 (ふこくきょうへい) - 国家を富ませ軍備を強化する明治政府のスローガン。殖産興業 (しょくさんこうぎょう) - 産業育成による経済発展政策。自由民権運動 (じゆうみんけんうんどう) - 明治前期の国会開設・憲法制定を求めた民衆運動。大日本帝国憲法 (だいにほんていこくけんぽう, Constitution of the Empire of Japan) - 明治制定の近代憲法(1889年発布、1890年施行)。日英同盟 (にちえいどうめい, Anglo-Japanese Alliance) - 1902年締結の日本とイギリスの軍事同盟。
近現代:大正・昭和(戦前/戦後)・平成・令和(20世紀〜現在)
大正時代(1912年〜1926年) – 民主と激動の幕開け
大正時代は明治に続く短い期間ながら、日本の民主主義運動と社会変革が進展した時代です。大正天皇治世の1910年代〜20年代前半にあたります。日露戦争後の国際的地位向上の一方、国内では第一次世界大戦景気(1914〜18年)による産業発展と、都市労働者・中産階級の台頭が見られました。1918年には米騒動が全国に広がり、寺内内閣が総辞職、大正デモクラシーの象徴とされる原敬(平民宰相)内閣が成立します。普通選挙権を求める声が高まり、政党政治が発展しました。1925年、男子普通選挙法が成立(25歳以上男子に選挙権)し、一方で治安維持法も公布され社会主義運動への弾圧も強化されました。外交面では第一次世界大戦に参戦し、戦勝国として山東省権益や南洋群島委任統治を得ました。国際連盟の常任理事国にもなり、ワシントン会議(1921-22年)では海軍軍縮に合意しています。大正期は「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義的風潮が高揚した時代であり、吉野作造の民本主義など思想界も活発でした。しかし関東大震災(1923年)の混乱や、金融恐慌の予兆など不安定要素も孕み、次の昭和期への課題を残しました。
昭和時代・戦前(1926年〜1945年) – 軍国主義と敗戦
昭和時代前期(戦前)は、昭和天皇即位(1926年)から第二次世界大戦終結(1945年)までの激動期です。大正デモクラシーの遺産はあったものの、1927年の金融恐慌や世界恐慌(1929年)で経済が打撃を受け、失業や農村不況が深刻化しました。社会不安の中、軍部・右翼勢力が台頭し、1932年に犬養毅首相が暗殺される五・一五事件、1936年の陸軍青年将校によるクーデター未遂(二・二六事件)などクーデター事件が相次ぎました。以降、政党内閣は途絶え、軍部主導の政権が樹立します。対外的には満洲事変(1931年)を契機に満洲国を建国、1933年に国際連盟を脱退し孤立化の道を進みました。1937年の盧溝橋事件から日中戦争(支那事変)が勃発し、中国への侵略が長期化します。1940年には大政翼賛会が結成され政党は解散、国家総動員法(1938年)により戦時統制経済・国民徴用が強化されました。外交では独伊との三国同盟(1940年)を締結し、米英との対立が決定的となります。1941年12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦しました。緒戦で日本軍は東南アジア・太平洋で快進撃を見せ「大東亜共栄圏」を標榜しましたが、ミッドウェー海戦以降は敗退を重ねます。国内では空襲や物資欠乏で国民生活は極度に困窮しました。1945年8月、日本は広島・長崎への原爆投下とソ連対日参戦を経てポツダム宣言を受諾し無条件降伏します。昭和戦前期は議会制民主主義が崩壊し、軍国主義体制での侵略戦争と敗戦に至った悲劇の時代でした。
昭和時代・戦後(1945年〜1989年) – 占領改革と経済成長
1945年8月15日、日本は連合国に降伏し、以降1945〜52年はGHQ(連合国軍総司令部)による占領統治下に置かれました。戦後改革として、民主化と非軍事化が徹底されました。婦人参政権の付与、経済の民主化(財閥解体・農地改革)、労働組合育成、教育制度改革(6-3-3-4制導入)などが急速に実施されました。極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦犯が裁かれ、治安維持法は廃止されました。1946年には日本国憲法が公布され、主権在民・基本的人権尊重・平和主義を掲げた新憲法の下で再出発します。経済は復興から高度成長へ進みました。朝鮮戦争(1950年)特需で景気が好転し、1955年頃には戦前水準を回復します。1950年代後半から1973年頃まで年平均10%前後のGNP成長を遂げ、「高度経済成長」期と呼ばれます。新幹線開通(1964年)や大阪万博(1970年)など技術革新と国際イベントを経験し、国民生活も一変しました。1964年の東京オリンピック開催、OECD加盟(1964年)や国連安保理非常任理事国選出などで国際的地位も向上します。外交ではサンフランシスコ講和条約(1951年)締結により1952年に主権を回復し、同時に日米安全保障条約を結び米軍駐留が継続しました。1956年には日ソ共同宣言でソ連と国交回復し、国際連合加盟も果たします。以後は日米安保を基軸に、自由主義陣営の一員として冷戦下の西側に属しました。1972年には日中国交正常化を達成、同年沖縄も本土復帰しています。高度成長期後半には公害問題や学生運動など社会問題も噴出しましたが、1973年のオイルショックを契機に成長は安定成長へ移行しました。1980年代はプラザ合意後の円高を背景にバブル景気(株・地価高騰)が発生し、平成初年に崩壊します。昭和後期の日本は経済大国となり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも評される繁栄を享受しましたが、その裏で格差や環境問題など次代への課題も孕んでいました。
平成・令和時代(1989年〜現在) – 挑戦と新時代の展開
平成時代(1989年〜2019年)は冷戦終結後の国際秩序とバブル崩壊後の経済停滞という、新たな課題に直面した時代です。1989年、昭和天皇崩御に伴い皇太子明仁親王が即位し平成が始まりました。直後にバブル経済が崩壊(1991年頃)し、以降「失われた10年」(のち20年とも)と呼ばれる長期経済停滞に陥りました。銀行の不良債権処理に時間を要し、デフレが慢性化します。1995年には阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生し、社会不安が高まりました。一方、IT革命の進展で経済のグローバル化が加速し、日本企業は国際競争に晒され産業構造の転換を迫られました。政治面では55年体制が崩壊し(1993年)、非自民連立政権や政権交代(2009年民主党政権成立)も経験しました。外交・安全保障面では湾岸戦争後にPKO協力法(1992年)を制定し、自衛隊の海外派遣(カンボジアPKOなど)も開始しました。1990年代末から2000年代にかけては少子高齢化が深刻化し、年金医療制度改革や労働市場の再編(非正規雇用増大)など社会の構造変化が起きています。2011年には東日本大震災と原発事故が発生し、甚大な被害とエネルギー政策の転換課題をもたらしました。令和時代は2019年5月1日に皇太子徳仁親王が新天皇に即位して始まりました。令和の日本は引き続き人口減少・経済再生・外交安全保障といった課題に向き合っています。2019年には新天皇即位と改元が祝賀ムードを生みましたが、直後の2020年に世界的な新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行に見舞われました。東京オリンピック・パラリンピックは史上初めて1年延期され、2021年に無観客開催されました。ウクライナ情勢など国際環境も不透明さを増し、日本は経済安全保障やエネルギー政策の見直しを迫られています。令和の現時点において、日本はポスト冷戦・グローバル時代の中で、自国の役割と持続可能な社会像を模索している段階と言えるでしょう。
代表的な史料
近現代の史料は極めて充実しています。大正デモクラシー期では、『原敬日記』や吉野作造「憲政の本義」論文、当時の新聞(『大阪朝日新聞』など)が政情を伝えます。昭和戦前は、『昭和天皇独白録』や各軍の作戦記録、『木戸幸一日記』などが意思決定過程を明らかにしています。終戦時の「玉音放送(終戦詔書)」のレコードやポツダム宣言受諾の詔書も重要史料です。GHQ関連文書(SCAP文書)や極東国際軍事裁判の記録は占領期の動きを詳述しています。日本国憲法の草案・制定過程資料や、帝国議会での審議録も公開されています。高度成長期では経済白書、国勢調査、各種統計年報がデータを提供し、池田勇人「所得倍増計画」文書、日米安保条約改定(1960年)に伴う岸首相演説・安保条約全文などがあります。平成以降は、デジタルアーカイブ化も進み、官公庁の白書・閣議決定資料、災害記録データベース、SNS上の記録まで多岐にわたります。東日本大震災に関しては政府の震災検証報告書や各自治体の災害誌、原発事故調査委員会報告などが記録をまとめています。令和時代の出来事は現在進行形のため、公文書館や国会会議録、報道記事、統計資料から逐次収集・保存が行われているところです。このように現代史の史料は、公文書から個人の証言集・電子記録まで媒体も多様であり、それらを批判的に検証し総合する作業が歴史研究者に求められています。
Key Takeaways: 大正時代は政党政治と民主主義が進展しましたが、昭和戦前期には軍部独裁と侵略戦争へ傾斜し、敗戦に至りました。戦後は占領下で民主化改革が実施され、日本国憲法の下で平和国家として再出発しました。高度経済成長により日本は経済大国となりましたが、平成期以降はバブル崩壊や少子高齢化、度重なる災害やグローバル化の波に直面しています。令和の現代もなお、戦後体制のもと国際平和と繁栄を維持しつつ、新たな社会課題への対応が続いています。
RDFトリプル:
- 〈普通選挙法, 制定, 1925年〉
- 〈太平洋戦争, 終結, 1945年8月15日〉
- 〈日本国憲法, 施行, 1947年5月3日〉
- 〈東京オリンピック, 開催, 1964年〉
- 〈東日本大震災, 発生, 2011年3月11日〉
固有名詞辞書: 大正デモクラシー (たいしょうデモクラシー, Taisho democracy) - 大正期の民主主義的風潮。五・一五事件 (ご・いちごじけん) - 1932年の海軍青年将校らによる首相暗殺事件。大東亜共栄圏 (だいとうあきょうえいけん) - 太平洋戦争期に日本が掲げたアジアブロック構想。GHQ (ジー・エイチ・キュー) - 連合国軍総司令部(占領軍指令機関)。高度経済成長 (こうどけいざいせいちょう) - 1950年代後半〜1970年代前半の日本における経済急成長期。バブル景気 (バブルけいき, Bubble economy) - 1980年代後半の資産価格高騰による好景気。平成 (へいせい, Heisei) - 1989〜2019年の元号(第125代明仁天皇)。令和 (れいわ, Reiwa) - 2019年以降の元号(第126代徳仁天皇)。
日本史年表(主要出来事100)
- 紀元前660年 – 神武天皇が即位(神話上の初代天皇とされる年)。
- 紀元前13,000年頃 – 縄文文化の始まり(草創期の土器出現)。
- 紀元前4世紀頃 – 稲作農耕が九州北部で本格化、弥生文化成立。
- 紀元前1世紀 – 倭(日本)の奴国王が後漢に朝貢、漢委奴国王の金印を受ける(57年)。
- 239年 – 邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使節を送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡を賜る。
- 3世紀中頃 – 大和政権の前身とされる勢力が畿内に台頭、大型前方後円墳の築造開始。
- 391年(辛卯年) – 広開土王碑に倭の活動が刻まれる(「而倭、以辛卯年来…」)
- 5世紀前半 – 『宋書』倭国伝に倭の五王(讃・珍・済・興・武)の朝貢記事。
- 推古天皇元年(593年) – 聖徳太子が摂政に就任し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を制定。
- 607年 – 小野妹子ら遣隋使を派遣。「日出づる処の天子」国書を隋皇帝に奉呈。
- 645年 – 乙巳の変。中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を討ち、大化の改新開始。
- 663年 – 白村江の戦い。倭・百済復興軍が唐・新羅軍に大敗、朝鮮半島から撤退。
- 672年 – 壬申の乱。大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を倒し即位。
- 701年 – 大宝律令制定。中央・地方の統治組織と律令法体系が整う。
- 710年 – 平城京に遷都。奈良時代が始まる。
- 743年 – 聖武天皇が大仏造立の詔。東大寺大仏(盧舎那仏)開眼供養(752年)。
- 794年 – 桓武天皇が平安京へ遷都。平安時代が始まる。
- 894年 – 菅原道真の建議で遣唐使停止。
- 935年 – 承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)。朝廷が鎮圧、武士の台頭が顕著に。
- 1016年 – 藤原道長が摂政となり摂関政治の全盛期。「此の世をば我が世とぞ思ふ…」。
- 1051年 – 前九年の役(〜1062年)。源頼義・義家が奥州安倍氏を討伐。
- 1083年 – 後三年の役(〜1087年)。源義家が奥州清原氏の内紛に介入し平定。
- 1086年 – 白河上皇が院政開始。上皇による治天の君政治の幕開け。
- 1156年 – 保元の乱。崇徳上皇 vs 後白河天皇の内乱、武士(源平)が動員される。
- 1159年 – 平治の乱。平清盛が源義朝らを破り、平氏政権が成立。
- 1167年 – 平清盛、太政大臣に就任。娘を天皇の后に立て外戚化、全盛期。
- 1180年 – 源頼朝が伊豆で挙兵(石橋山の戦い)。以後、全国に源平合戦が拡大。
- 1185年 – 壇ノ浦の戦い。源氏が平氏を滅ぼす。源義経が活躍、のち奥州へ逃亡。
- 1185年または1192年(諸説) – 源頼朝が征夷大将軍に就任、鎌倉幕府成立。
- 1221年 – 承久の乱。後鳥羽上皇が幕府討伐を図るも失敗。幕府が朝廷を圧倒し、西国に守護地頭を拡大。
- 1232年 – 御成敗式目(貞永式目)制定。北条泰時が武家初の法典を公布。
- 1274年 – 文永の役(元寇第一次)。元・高麗軍が九州北部博多湾に襲来。暴風雨もあり撃退。
- 1281年 – 弘安の役(元寇第二次)。元軍が再度来襲も、再び暴風雨(神風)で大損害、撤退。
- 1297年 – 永仁の徳政令。幕府が御家人救済のため所領無償返還を命じる。効果は限定的。
- 1333年 – 新田義貞が鎌倉攻め、北条高時ら自害し鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇の建武の新政開始。
- 1336年 – 湊川の戦いで楠木正成討死。足利尊氏が京都占領、光明天皇を擁立し建武式目制定。南北朝分裂(〜1392年)。
- 1338年 – 足利尊氏、征夷大将軍就任。室町幕府正式成立。
- 1392年 – 南北朝合一。足利義満が南朝(後亀山天皇)を帰順させ、京都に統一。
- 1401年 – 足利義満、明に遣使して朝貢開始(勘合貿易の始まり)。
- 1467年 – 応仁の乱勃発(〜1477年)。将軍継嗣争いと管領家内紛から京都が戦場に。以後戦国時代へ。
- 1543年 – 種子島にポルトガル人漂着、鉄砲伝来。
- 1549年 – イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル、鹿児島に来日しキリスト教布教開始。
- 1560年 – 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る。
- 1568年 – 織田信長が足利義昭を奉じて上洛、京都を掌握(戦国時代の終焉、安土桃山時代へ)。
- 1573年 – 信長、足利義昭を追放。室町幕府滅亡。
- 1575年 – 長篠の戦い。織田・徳川連合軍が鉄砲隊を駆使して武田騎馬軍を破る。
- 1582年 – 本能寺の変で織田信長が家臣明智光秀に討たれる。山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を討つ。
- 1583年 – 賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破る。秀吉、大阪城築城開始。
- 1587年 – 秀吉がバテレン追放令を発し、宣教師の国外退去を命令。
- 1590年 – 小田原合戦で秀吉が北条氏を降し、全国統一完成。秀吉、全国大名に惣無事令発布。
- 1592年 – 文禄の役(朝鮮出兵、〜1593年)。秀吉が大軍を朝鮮に派兵し漢城陥落も、明軍介入で停戦。
- 1597年 – 慶長の役(第二次朝鮮出兵、〜1598年)。秀吉死去に伴い撤兵。
- 1600年 – 関ヶ原の戦い。徳川家康が石田三成率いる西軍に勝利、全国支配確立へ。
- 1603年 – 徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。
- 1615年 – 大坂夏の陣で豊臣氏滅亡。武家諸法度(元和令)発布し、一国一城令などで大名統制強化。
- 1637年 – 島原・天草一揆(〜1638年)。益田時貞(天草四郎)率いるキリシタン農民反乱。幕府が鎮圧。
- 1639年 – ポルトガル船の来航禁止。【鎖国の完成】(以後は長崎で清・オランダと交易)。
- 1707年 – 宝永大噴火で富士山が大規模噴火、関東に降灰。
- 1709年 – 新井白石の正徳の治(〜1716年)。朝鮮通信使待遇簡素化や海舶互市新例(長崎貿易制限)。
- 1787年 – 松平定信が老中就任、寛政の改革(〜1793年)。棄捐令(旗本・御家人の債務破棄)など倹約・復古策。
- 1808年 – フェートン号事件。英軍艦が長崎港に侵入、薪水・食料強要事件。
- 1825年 – 異国船打払令。幕府が外国船無二念打払を命じる。
- 1837年 – 大塩平八郎の乱(大坂の元与力が蜂起)。モリソン号事件(浦賀で米船砲撃)。
- 1841年 – 水野忠邦による天保の改革(〜1843年)。人返しの法や上知令(失敗)などを実施。
- 1853年 – ペリー提督率いる米艦隊が浦賀に来航、開国要求。翌1854年、日米和親条約調印。
- 1858年 – 日米修好通商条約調印(安政五ヵ国条約)。江戸幕府が不平等条約を締結し開市開港へ。
- 1860年 – 桜田門外の変。大老井伊直弼が水戸浪士らに暗殺される。
- 1867年 – 大政奉還(徳川慶喜が政権返上)。王政復古クーデターで明治新政府成立。
- 1868年 – 戊辰戦争起こる(鳥羽伏見の戦い~箱館戦争)。明治政府が勝利し全国支配確立。明治改元。
- 1871年 – 廃藩置県断行ndl.go.jp、府県制を敷く。岩倉使節団が欧米に出発(〜73年)。
- 1873年 – 徴兵令公布(血税一揆発生)。地租改正条例公布(一揆多発)。征韓論争で西郷隆盛・板垣退助ら参議が下野。
- 1874年 – 佐賀の乱鎮圧。板垣退助ら愛国公党が民撰議院設立建白書を提出。台湾出兵実施。
- 1877年 – 西南戦争勃発。西郷隆盛率いる士族反乱、半年で政府軍が鎮圧。
- 1881年 – 明治十四年の政変。開拓使官有物払下げ中止、大隈重信罷免。政府が国会開設の勅諭(1890年国会開設約束)を発布。自由党・立憲改進党結成。
- 1889年 – 大日本帝国憲法発布。
- 1890年 – 第1回帝国議会開催。教育勅語公布。
- 1894年 – 日清戦争勃発(~1895年)。陸奥宗光、日英通商航海条約締結(治外法権撤廃)。
- 1895年 – 下関条約調印。清が台湾割譲。三国干渉で遼東半島清へ返還。
- 1902年 – 日英同盟協約締結。
- 1904年 – 日露戦争開戦(~1905年)。
- 1905年 – ポーツマス条約調印(日本、韓国指導権・南樺太・南満洲の利権獲得)。日比谷焼打ち事件発生。第二次日韓協約で韓国保護国化。
- 1910年 – 韓国併合条約調印。大逆事件発覚、幸徳秋水ら処刑。
- 1912年 – 明治天皇崩御、大正改元。中華民国成立(清朝滅亡)。
- 1914年 – 第一次世界大戦勃発。日本、日英同盟に基づき対独参戦し青島攻撃。
- 1918年 – シベリア出兵開始(~1922年)。米騒動全国へ波及、寺内内閣総辞職。原敬による立憲政友会単独内閣成立。
- 1923年 – 関東大震災、死者10万余。甘粕事件・亀戸事件など混乱下での社会主義者弾圧。
- 1925年 – 普通選挙法公布(満25歳以上男子に選挙権)。治安維持法公布。
- 1926年 – 昭和天皇即位、昭和改元。
- 1927年 – 金融恐慌発生。台湾銀行救済問題で若槻内閣総辞職、田中義一内閣成立。
- 1931年 – 満洲事変勃発(柳条湖事件)。翌年満洲国建国宣言。
- 1932年 – 五・一五事件。犬養毅首相射殺、政党政治終焉。斉藤実海軍大将が首相に。
- 1933年 – 国際連盟、日本の満洲国承認を否決。日本は連盟脱退通告し翌年正式脱退。
- 1936年 – 二・二六事件。陸軍皇道派青年将校らによる東京クーデター未遂、首相官邸など襲撃。広田弘毅内閣成立。日独防共協定締結。
- 1937年 – 盧溝橋事件を契機に日中戦争(支那事変)勃発。南京占領(南京事件発生)。
- 1940年 – 日独伊三国同盟締結。大政翼賛会発足。紀元二千六百年式典。
- 1941年 – 太平洋戦争開戦(12月8日、真珠湾攻撃)。マレー半島上陸。
- 1944年 – サイパン島陥落(7月)。連合艦隊、レイテ沖海戦で大敗(10月)。本土空襲本格化。
- 1945年 – 東京大空襲(3月10日約10万人死亡)。沖縄戦(4〜6月、住民含め約20万人戦死)。広島に原爆投下(8月6日)、長崎に原爆投下(8月9日)。ソ連対日宣戦布告(8月9日)。ポツダム宣言受諾・終戦(8月15日)。9月2日降伏文書調印。GHQ占領統治開始。11月、財閥解体指令。
- 1946年 – 日本国憲法公布(11月3日)。
- 1947年 – 日本国憲法施行(5月3日)。独占禁止法施行。教育基本法・学校教育法公布。第一次ベビーブーム(〜1949年)。
- 1950年 – 朝鮮戦争勃発(〜1953年)。警察予備隊創設。レッドパージ開始。
- 1951年 – サンフランシスコ平和条約調印(9月)。日米安全保障条約調印。
- 1952年 – 主権回復、連合国占領終了(4月28日)。日米行政協定締結。血のメーデー事件(5月)。
- 1954年 – 自衛隊発足(保安隊・警備隊を改組)。第五福竜丸事件(ビキニ環礁水爆実験で被曝)。
- 1955年 – 保守合同で自由民主党結成。以後55年体制成立(〜1993年)。神武景気始まる。
- 1960年 – 日米安保条約改定(岸信介内閣)。安保闘争激化し、国会周辺でデモ隊と警官隊衝突(6月)。条約自然承認、岸内閣総辞職。
- 1964年 – 東京オリンピック開催(10月)。東海道新幹線開業。IMF8条国移行。
- 1965年 – 日韓基本条約締結(韓国と国交正常化)。(注:ベトナム戦争に自衛隊派遣は行っていない。自衛隊の初の海外実任務は1991年のペルシャ湾掃海。)
- 1968年 – GNPで日本が資本主義国第2位に。川崎公害訴訟提起など四大公害訴訟相次ぐ。
- 1970年 – 大阪万博(日本万国博覧会)開催。よど号ハイジャック事件。三島由紀夫自決。
- 1971年 – ニクソン・ショック(ドル金交換停止)。変動為替相場制へ移行。
- 1972年 – 沖縄本土復帰(5月15日)。日中国交正常化(9月)。連合赤軍あさま山荘事件。
- 1973年 – 第一次石油危機。高度成長期終了。狂乱物価と戦後初マイナス成長。
- 1975年 – 第1回先進国首脳会議(サミット)開催(仏ランブイエにて、日本も参加)。
- 1985年 – プラザ合意(円高へ誘導)。以後バブル景気へ。日本航空123便墜落事故(520名死亡)。
- 1989年 – 昭和天皇崩御、平成改元。消費税3%導入。冷戦終結。リクルート事件で竹下内閣退陣。参院選で土井たか子党首の社会党躍進。
- 1991年 – バブル経済崩壊始まる。湾岸戦争勃発、日本が多額の財政支援。
- 1993年 – 55年体制終焉。細川護熙連立内閣成立、政権交代実現。衆院で小選挙区比例代表並立制導入の政治改革関連法成立。
- 1995年 – 阪神・淡路大震災(1月17日、死者6,434人)。地下鉄サリン事件(3月20日)。
- 2001年 – 9.11米同時多発テロ。テロ対策特別措置法成立、自衛隊をインド洋派遣(初の本格海外派兵)。小泉純一郎内閣、聖域なき構造改革宣言。
- 2004年 – 新潟県中越地震。イラク復興支援特措法の下、陸上自衛隊をイラク・サマーワへ派遣。
- 2008年 – リーマン・ショックで世界同時不況。洞爺湖サミット開催。
- 2011年 – 東日本大震災(3月11日、マグニチュード9.0、死者行方不明1万8千人超)発生。福島第一原発事故。サッカー女子W杯で日本初優勝(7月)。野田政権、民主党内紛。
- 2012年 – 第2次安倍晋三内閣発足、「アベノミクス」で金融緩和・財政出動。
- 2016年 – 熊本地震。オバマ米大統領、現職初の広島訪問。天皇、生前退位の意向表明。
- 2019年 – 天皇明仁退位(4月30日)・皇太子徳仁親王即位(5月1日)。令和に改元。G20大阪サミット開催。
- 2020年 – 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行、日本でも緊急事態宣言発出(4月)。東京五輪・パラリンピック開催延期決定。
- 2021年 – 東京オリンピック・パラリンピック開催(7–9月、原則無観客。首都圏等は無観客、一部会場で限定的観客)。アフガニスタンからの自衛隊緊急航空輸送実施。
- 2022年 – ロシアがウクライナ侵攻、日本含む各国が対露経済制裁。物価高騰。安倍晋三元首相、遊説中に銃撃され死去(7月)。国葬実施(9月)。
- 2023年 – 日本でG7広島サミット開催(5月)。岸田政権、防衛費増額と財源確保法成立(安全保障政策転換)。
【※年表中の出来事は簡略化されています。また紀元前年代等は概数です。】
地理・制度・経済の長期トレンド
日本列島の歴史を通観すると、地理的条件・制度の変遷・経済構造において長期的なトレンド(傾向)が見出せます。以下では地理・政治制度・経済の観点から、時代を貫く大きな流れを整理します。
- 地理・領域統合の推移: 日本列島はその形状ゆえに、古代は地域ごとに異なる文化圏が並立していました。縄文・弥生時代は各地のクニが分立していましたが、古墳時代に大和政権が畿内を中心に勢力を広げ、領域統合が進みます。飛鳥・奈良期に律令国家が成立し、九州から東北地方南部までを中央政府の直轄支配下に置きました(蝦夷地と琉球は除く)。中世は幕府と朝廷による二元支配でしたが、基本的な領域は変わらず、むしろ国内の空間統合が進みます。江戸時代の幕藩体制では全国が約300藩に区分されつつも、参勤交代や五街道整備により経済的・文化的に統合が深化しました。明治維新以後は廃藩置県で行政区画が近代的に再編され、北海道開拓や沖縄処分で蝦夷地・琉球も版図に組み込みました。帝国期には台湾・樺太・朝鮮など海外領土も獲得しましたが、敗戦で放棄し、以後は戦前からの固有領土(本土四島+沖縄等)に限定されています。地理的には、古代〜中世に畿内→近世に江戸(関東)→現代に東京へと政治経済の重心が東方移動した点も注目されます。いずれにせよ、列島規模での統一と全国支配の安定は律令国家成立以降に達成され、地理的な一体化は交通・通信技術の発達により進展し続けました。
- 統治制度の変遷: 日本史の政治制度は、古代の天皇親政的な律令制から、中世の封建制(武家政権)への移行、そして近代の立憲制への転換という三段階で捉えられます。律令制では太政官を頂点に中央集権官僚機構が全国を統治し、公地公民制の理念に基づく法治国家を志向しました。しかし律令制は平安後期には形骸化し、荘園制と摂関政治・院政が現れて貴族勢力が実質支配するようになります。鎌倉幕府の成立で武家政権が登場し、以後江戸幕府まで約700年は武家政権と朝廷の二元体制でした。武家政権下では土地を仲立ちとした主従制(御恩と奉公)が政治の基本で、将軍・大名など封建領主による分権的支配がなされました。しかし戦国〜安土桃山期に至り、織豊政権が一時的に中央集権を復活させ、江戸幕府は封建制を温存しつつも参勤交代や法度で大名を統制する幕藩体制を確立しました。近代維新により幕藩体制は廃され、天皇を元首とする中央集権近代国家が誕生します。大日本帝国憲法下では君主大権が強い立憲君主制でしたが、第二次大戦後の日本国憲法で主権在民の民主制に転換しました。こうした制度変革の中でも、天皇制は連綿と続き(神話的初代から現在まで一系)、時に権威として、時に権力者として日本の政治構造に組み込まれてきました。一方、武家政権の伝統は明治以降は解体されましたが、高度な官僚制や法治主義の指向は律令制以来の系譜とも言えます。また地方自治制度も、郡司→荘園領主→代官/郡代→府県知事という形で担い手を変えつつ連続性を保っています。このように統治制度は、中央集権と地方分権の振り子や、貴族・武士・官僚といった支配層の交替を経験しつつ現代に至っています。
- 経済構造の発展: 経済面では、古代から現代まで一貫した農業基盤の上に、商工業の発展と貨幣経済の浸透が段階的に進みました。古代律令制では稲穀による租税が国家財政の中心で、富の源泉は農業生産でした。中世になると荘園制の下で農業生産力が向上し、二毛作の普及や農具改良で余剰が増え、各地で定期市が立つようになります。貨幣についても、奈良・平安期は皇朝十二銭が発行されましたが流通は限定的でした。鎌倉時代末〜室町時代には宋銭・明銭など輸入銭が国内通貨として広く流通し始め、商取引が活発化しました。戦国期には各大名が独自の貨幣(銀判・銭など)を鋳造した例もあります。江戸時代には幕府が金銀銭の三貨制度を確立し、全国市場が形成されました。農村では商品作物栽培や都市への年貢米輸送が進み、都市では株仲間(ギルド)的組織を通じて商業資本が蓄積しました。18世紀には両替商(金銀為替業者)が台頭し、貨幣経済が農村隅々まで波及します。明治以降は殖産興業政策により産業革命が起こり、製糸・紡績など軽工業から重化学工業へと産業の重心が移りました。資本主義市場経済が本格化し、財閥など大資本が成立、賃労働者階級も大量出現します。20世紀後半の高度成長で日本は工業立国となり、国民所得の大半が第二次・第三次産業から生まれるようになりました。21世紀現在では経済はサービス業中心となり、情報技術産業や金融が大きな比重を占めています。ただし食料など一次産品はなお国土に大きく依存し、農業人口こそ減少したものの耕地や漁場の維持は国家存立に不可欠です。全体として、日本経済は自給自足的農村経済から貨幣商業経済を経て、工業主導の資本主義経済へと変貌してきました。その過程で農民・職人・商人・企業家・サラリーマンといった経済主体が歴史ごとに主役を交替しつつ、現代の多様な経済社会へと至っています。
以上のように、日本の歴史には時代を貫く長期的な発展傾向が存在します。もっとも、これらのトレンドは直線的ではなく、時に停滞や逆行、急進展を伴いました。例えば中央集権と地方分権は繰り返し交代し、貨幣経済の広まりも戦乱で一時後退することがありました。それでも長い目で見れば、列島統合の完成、統治構造の近代化、経済の高度化という大筋の方向性が認められます。歴史を学ぶ上では、このような大きな流れを把握することが、各時代の出来事を位置付ける助けとなるでしょう。
FAQ(よくある質問)
Q1. 縄文時代と弥生時代の違いは何ですか?
A1. 最大の違いは生活様式と技術です。縄文時代(約1.3万年前〜紀元前10世紀頃)は狩猟採集社会で、縄目文様の土器を使い、定住はしていましたが本格的な水田稲作はまだなく木の実採集や狩りに依存していました。一方、弥生時代(紀元前10世紀頃〜3世紀頃)は稲作農耕が始まり、金属器(青銅器・鉄器)の使用も特徴です。農業生産により人口が増え、集落の規模も大きくなり、身分の差が生まれました。また土器も縄文土器より薄手で実用的な弥生土器へ変化しています。まとめると、縄文は狩猟採集・土偶など精神文化の時代、弥生は稲作と金属器による生産社会の時代といえます。
Q2. 平安時代と奈良時代は何が違いますか?
A2. 政治の仕組みと文化に違いがあります。奈良時代(710–784年)は律令制に基づき平城京を都とした中央集権国家で、天皇中心の官僚機構が整い、仏教が国家手段として重視されました。唐の影響が強く、唐風の天平文化(正倉院宝物など国際色豊かな文化)が栄えています。一方、平安時代(794–1185年)は平安京(京都)に遷都し、次第に政治実権が天皇から藤原氏など摂政・関白を出す貴族に移りました。律令制の形骸化で荘園制が広がり、地方分権的になります。また遣唐使中止(894年)後は国風文化が成熟し、仮名文字が発明され『源氏物語』『枕草子』といった日本独自の文学が開花しました。要するに、奈良は律令国家の完成期で唐風文化、平安は貴族政治と国風文化という違いがあります。
Q3. 江戸時代の身分制度とは何ですか?
A3. 士農工商(しのうこうしょう)と呼ばれる封建的身分制度です。頂点は武士(士)で、将軍・大名から藩士、江戸の旗本・御家人まで広く武家階級が政治的支配層でした。次に農民(農)で、村に住み年貢を納める本百姓が多数派でした。農民は武士に次ぐ重要身分とされつつ移動や商売に制限がありました。その下が職人(工)と商人(商)で、町人身分として城下町や宿場町に住み、手工業や商業に従事しました。士農工商のほか、これらに含まれない被差別身分(当時のえた・非人など)も存在しました。この身分制度は生まれによって定まり、着る物・住まい・姓の有無など社会的待遇に差がありました。ただ後期になると経済力のある商人が台頭し武士を支える逆転現象も起こりました。明治維新で廃止されるまで、士農工商は江戸社会の秩序の基本でした。
Q4. 明治維新とは何ですか?
A4. 明治維新は、19世紀後半(主に1868年前後)に起きた日本の政治・社会の大変革を指します。徳川幕府を倒して天皇中心の新政府を樹立し、近代国家への転換を図った一連の改革です。具体的には、王政復古(1868年)で天皇親政を宣言し、続いて廃藩置県(1871年)で藩を廃止して中央集権化しました。また身分制を改め四民平等とし、徴兵令(1873年)で国民皆兵の軍隊、学制(1872年)で近代教育制度を導入するなど、多方面の改革が断行されました。経済面でも封建的土地制度を廃し地租改正を行い、殖産興業政策で産業育成に努めました。明治維新によって日本は封建社会から脱却し、近代的な中央政府と資本主義経済体制を整えたのです。外国の圧力に対応するための富国強兵が維新の原動力であり、明治維新は日本を欧米列強に肩を並べる近代国家へ押し上げる契機となりました。
Q5. 大正デモクラシーとは何ですか?
A5. 大正デモクラシーとは、大正時代(1912–1926年)に日本で高まった民主主義的風潮および政治・社会運動のことです。第一次世界大戦後の自由主義の影響や、中産階級・都市労働者の成長を背景に、普通選挙や政党政治を求める動きが活発化しました。具体的には、1918年の米騒動をきっかけに原敬内閣が成立し、本格的な政党内閣が実現しました。続いて護憲運動の高まりにより、普通選挙法(1925年、25歳以上の男性に選挙権)が成立しました。吉野作造が唱えた民本主義(デモクラシー思想)は知識人や新聞を通じて広まり、政治だけでなく社会・文化面でも大衆参加の気運が高まりました。この時期、女性解放や労働運動も芽生え、雑誌や文学も民主主義や個人主義を謳歌する内容が増えました。大正デモクラシーは1925年の治安維持法成立(社会運動弾圧)や昭和初期の軍部台頭で潰えますが、日本における近代民主政治の揺籃期として位置付けられています。
Q6. 昭和の戦前と戦後では日本はどう変わりましたか?
A6. 昭和戦前(1926–1945年)は軍国主義の下で侵略戦争を推し進め、最終的に敗戦に至った時代です。政治は民主制が崩壊し軍部独裁となり、日中戦争・太平洋戦争へ突入しました。国民生活は統制経済と物資欠乏、空襲による壊滅的被害など困窮を極めました。一方、昭和戦後(1945–1989年)は米主導の占領改革で民主化と平和主義が定着し、経済発展に邁進した時代です。日本国憲法の施行で主権在民・基本的人権・戦争放棄が宣言され、議会制民主主義が復活しました。経済的には戦後復興から高度経済成長を遂げ、国民の暮らしは飛躍的に向上しました。戦前との大きな違いは、政治体制(全体主義→民主主義)と外交方針(侵略的軍事国家→平和国家)です。戦前は軍事最優先でしたが、戦後は経済と福祉を重視し、国際的にも軍事行動を取らない方針を貫きました。その結果、戦前は自由や生活が抑圧されましたが、戦後は自由で豊かな社会を築くことができたのです。
Q7. 江戸時代に日本はなぜ鎖国したのですか?
A7. 鎖国の目的は、主にキリスト教の影響排除と幕府の安定統治にありました。徳川幕府初期、欧州勢力(スペイン・ポルトガル)は布教とともに来航し、日本でもキリスト教改宗者が増えました。しかし幕府にとってキリスト教は在来の支配秩序を脅かすイデオロギーであり、また宣教師が大名に影響力を持つことを警戒しました。そのため幕府は1612年から禁教政策を進め、島原の乱(1637年)でキリシタン一揆が起きたことも重なり、徹底的に外国人宣教師やキリシタンとの接触を断つ方針を取ります。1639年までにポルトガル船来航を禁止し、日本人の海外渡航・帰国も禁止しました。これにより西洋列強の軍事介入や宗教浸透を防ぎ、幕府は国内の統制を強化できました。また鎖国により貿易を長崎のオランダ・清に限定することで、貿易利益を幕府管理下に置けた利点もあります。要するに鎖国は、日本を植民地化しうる欧州勢力の影響を遮断し、幕府が国内秩序を安定維持する戦略だったのです。結果として約200年平和が保たれましたが、開国時に欧米の進歩から取り残されていた副作用もありました。
Q8. 令和時代にはどんな出来事がありますか?
A8. 令和は2019年に始まった現元号で、まだ数年ですが既にいくつかの歴史的出来事がありました。まず2019年4月末に前天皇(明仁上皇)の譲位が行われ、皇位継承によって5月1日に徳仁天皇が即位し令和に改元されました。この譲位は約200年ぶりで、天皇の生前退位は近代以降初のことでした。2020年には世界的に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックが発生し、日本でも緊急事態宣言や行動自粛が繰り返し行われる大きな社会変化が起きました。これに伴い、予定されていた東京オリンピック・パラリンピック2020は史上初めて開催延期となり、翌2021年夏に無観客で開催されました。2022年にはロシアのウクライナ侵攻でエネルギーや物価の高騰が起こり、日本も戦後最多の物価上昇率を経験しています。また同年、安倍晋三元首相が凶弾に倒れるという衝撃的事件もありました(2022年7月)。その他、令和時代には少子高齢化や気候変動対策など継続課題も山積しています。このように令和は始まったばかりですが、世界的危機(パンデミック・戦争)への対応や国内の制度見直しなど、激動する社会に直面した時代といえます。
Q9. なぜ首都は京都から東京に移ったのですか?
A9. 首都機能が京都から東京へ移ったのは、明治維新に伴う政治的判断でした。1868年、明治新政府は旧幕府勢力の多い江戸に入城し、江戸を「東京(東の京)」と改称しました。翌1869年3月に明治天皇が京都から東京へ行幸し、事実上東京を新たな首都としました。理由はいくつかあります。(1) 江戸(東京)は人口約百万の当時最大都市で、経済・行政インフラが整っており、近代国家の中心に適していた。(2) 開国後、欧米に近い東日本に政治拠点を置く方が外交・防衛上有利と考えられた。(3) 旧勢力である徳川の本拠地を新政権が直轄することで反乱の芽を摘む意図もあった。加えて明治政府の主力藩(薩摩・長州)が西国であり、遠隔の京都より東上してきた形の東京の方が中間地点として妥当という声もあったようです。公式には「遷都」の詔は出されていませんが、事実上東京が政治の中心となり、以後皇居も東京に置かれました。こうして明治以降は東京が首都となり、京都は伝統文化の都として残ることになりました。
Q10. 戦国時代と室町時代は同じ時代ですか?
A10. 戦国時代は室町時代の後期に当たる概念です。室町幕府(1336–1573年)の統治下で、将軍の権威が衰え下剋上が横行した時期(15世紀中頃〜16世紀後半)を特に「戦国時代」と呼んでいます。具体的には応仁の乱(1467年)以降、各地の守護大名が実力者(戦国大名)に取って代わり、全国で群雄割拠の戦乱状態が続きました。つまり戦国時代は室町時代(特に後半期)の状態を指す歴史区分です。一般には、応仁の乱〜織田信長の上洛(1568年)や室町幕府滅亡(1573年)までを戦国時代とします。従って室町時代=戦国時代ではなく、室町時代の中に戦国乱世の期間が含まれる、と整理できます。また戦国時代は安土桃山時代(1568/73〜1600年)とも一部重なります。歴史区分は便宜的なもので厳密な境目はありませんが、「戦国」は主に戦争状態に焦点を当てた呼称、「室町」は幕府や文化に焦点を当てた呼称と言えます。
用語集(50音順)
- 明石原人(あかしげんじん) – 兵庫県明石市で発見された更新世(約20万年前)の人類化石。日本列島における旧石器時代の人類の一例。【参考】更新世の日本列島には北京原人などに近い原人がいた可能性が議論されるが、確実な証拠は乏しい。
- 朝貢(ちょうこう) – 中国の皇帝に対し周辺諸国の君主が貢物を献じ、皇帝から冊封や返礼品を受ける外交儀礼。倭の五王は5世紀に南朝に朝貢し官職を得た。【例】倭王武は宋に朝貢し「安東大将軍」の称号を受けた。
- 安政の大獄(あんせいのたいごく) – 1858〜59年、井伊直弼が反対派の大名・志士を処罰・粛清した事件。吉田松陰や橋本左内ら尊皇攘夷派が処刑された。幕府独裁強化策だったが、結果として井伊自身も桜田門外で暗殺された。【例】安政の大獄で吉田松陰は江戸で刑死した。
- 板垣退助(いたがきたいすけ) – 幕末〜明治期の土佐藩士・政治家(1837–1919)。維新後参議となるが明治6年政変で下野。自由民権運動を主導し、自由党を結成。演説中の「板垣死すとも自由は死せず」の逸話で有名。1890年には帝国議会議員となった。
- 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう) – 1889年発布の近代憲法。君主である天皇に統治権を総攬させる欽定憲法で、立法権は帝国議会(二院制)、行政は内閣、司法は裁判所が担当。天皇は陸海軍統帥権や緊急勅令など強大な権限を持つ。臣民の権利は法律の範囲内で認められた。
- 大政奉還(たいせいほうかん) – 1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上した出来事。倒幕派の圧力を受け政権委譲を図った。これにより江戸幕府の統治は名目上終わり、その後の王政復古のクーデターへ繋がった。
- 大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー) – 1910〜20年代の日本で展開した民主主義的諸現象・思想傾向。護憲運動、普通選挙法制定、労働運動・女性運動の胎動、雑誌『青鞜』創刊など文化面での自由主義が特徴。治安維持法制定(1925年)で弾圧が強化され収束した。
- 太平洋戦争(たいへいようせんそう) – 1941〜45年の戦争。日本と連合国(米英中豪蘭他)との間で戦われた。日本側呼称は「大東亜戦争」。開戦時の真珠湾攻撃からミッドウェー海戦・ガダルカナル戦等を経て、日本は徐々に劣勢となり、本土空襲と原爆投下を受けて降伏した。アジア太平洋地域で約2000万人が死亡した。
- 中臣鎌足(なかとみのかまたり) – 飛鳥時代の公卿(614–669)。大化の改新の立役者の一人で、乙巳の変(645年)で蘇我氏打倒に尽力。天智天皇に仕え藤原姓を賜り、藤原氏の祖となった。
- 南北朝(なんぼくちょう) – 14世紀の朝廷分裂期(1336〜1392年)。京都の北朝(足利幕府擁立の天皇)と、吉野の南朝(後醍醐天皇の子孫)が並立した。争乱の末、足利義満の調停で1392年合一したが、皇位継承は北朝系に固定され、南朝は不利な形で幕を閉じた。
- 日清戦争(にっしんせんそう) – 1894〜95年、日本と清国の戦争。朝鮮半島の支配権を巡り勃発し、日本軍が勝利。下関条約で清は台湾・澎湖を日本に割譲し、多額の賠償金支払いと朝鮮独立を認めた。日本初の対外大勝利で、列強の仲間入りを果たした。
- 日中戦争(にっちゅうせんそう) – 1937〜45年の日本と中国(国民政府)との全面戦争。盧溝橋事件を発端に華北・上海・南京へ戦線拡大。日本軍は南京占領時に多数の中国人を虐殺(南京事件)した。戦局は泥沼化し、太平洋戦争終結とともに日本は中国大陸から撤退した。
- 日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい) – 1940年9月27日調印の軍事同盟条約。日本・ドイツ・イタリアの枢軸国が相互援助を約した。第三国から攻撃された場合の相互防衛や勢力圏承認などを定めたが、実際の軍事協力は限定的だった。1945年の枢軸国敗戦で失効。
- 日米和親条約(にちべいわしんじょうやく) – 1854年3月、日本(江戸幕府)と米国が締結した条約。ペリー来航を受け下田・函館の開港、薪水補給や難破船救助を約した。不平等条項はないが貿易規定も未定だった。日本の鎖国終焉を画する条約。
- 日本国憲法(にほんこくけんぽう) – 1946年11月3日公布、1947年5月3日施行の現行憲法。主権在民、基本的人権の尊重、平和主義を三大原則とする。象徴天皇制採用、戦争放棄(第9条)規定など、戦前の帝国憲法から大幅に転換した民主的憲法である。
- 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい) – 663年、朝鮮半島・白村江で起きた倭・百済復興軍 vs 唐・新羅連合軍の海戦。倭軍は大敗し、百済は滅亡。日本は以後朝鮮半島へ直接介入せず、防人や水城を設置して国防強化に努めた。
- 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく) – 明治初期(1868年頃)に起きた仏教排斥運動。神仏分離令を契機に全国で寺院破壊・僧侶還俗・仏像仏具の破棄が行われた。特に薩摩などで激しく、文化財が多数失われた。明治政府は行き過ぎを禁じる布告を出したが後手に回った。
- 廃藩置県(はいはんちけん) – 1871年7月14日に断行された明治政府の改革。全国の藩を廃止し、府県を設置して中央政府直轄の地方行政区画とした。旧藩主(知藩事)は罷免され華族となり、藩兵も解散し徴兵制へ移行。中央集権国家確立の画期となった。
- 八幡製鉄所(やはたせいてつじょ) – 明治政府が北九州(福岡県八幡)に建設した官営製鉄所。1901年操業開始し、日本初の本格的製鉄所として鉄鋼大量生産を実現。日清戦争の賠償金を元手に建設され、製鉄王・渋沢栄一らが尽力。日本の重工業化の基盤となり、のち新日本製鐵八幡製鉄所へ発展。
- 邪馬台国(やまたいこく) – 3世紀頃に存在したとされる倭の小国家。女王卑弥呼が統治し魏に朝貢したと『魏志倭人伝』に記述。所在地は北九州説と畿内説があり定まらない。30国余りの倭国連合の盟主とも推測される。卑弥呼死後は男王、さらに壱与(壹與)が継いだとされる。
- 由井正雪の乱(ゆいしょうせつのらん) – 正式名称「慶安の変」(1651年)。兵学者由井正雪ら浪人が幕府転覆を謀った未遂事件。徳川家光死去直後の混乱を突こうとしたが、計画前に露見し首謀者正雪は自害。幕府は諸藩に牢人統制を命じ、結果浪人対策として文治政治への転換が進んだ。
- 律令制(りつりょうせい) – 律(刑法)と令(行政法)に基づく古代日本の中央集権統治制度p。唐にならい7〜10世紀に整備。天皇を頂点に太政官・八省など官僚機構を設置し、全国を国・郡・里に区分。公地公民制(土地と人民は国家所有)で戸籍・班田収授を行い、租庸調や兵役を課した。平安中期以降形骸化した。
- 列藩同盟(れっぱんどうめい) – 幕末期、徳川慶喜が薩長に対抗するため画策した諸侯連合構想。大政奉還後、諸藩連合による合議制政権(徳川氏はその筆頭)を目指したが、王政復古で頓挫。1868年1月の小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が決まり、構想は潰えた。
- 和同開珎(わどうかいちん) – 平城京遷都の708年、元明天皇の時代に鋳造された銅銭。和同開珎は日本で本格的に流通した古代銭の代表。なお、日本最古の貨幣としては飛鳥池遺跡出土の「富本銭」(7世紀後半)が確認されている。唐の開元通宝にならい、以後皇朝十二銭が鋳造された。和同開珎は秩父産出の和銅を記念して名付けられ、1文銭として使用。奈良時代に流通したが、次第に米や布の物々交換が主流に戻った。
- 倭寇(わこう) – 14〜16世紀に東シナ海・日本海で活動した海賊集団。前期(14〜15世紀)は日本の九州や対馬の武士・商人が中心で、朝鮮・中国沿岸を襲撃。後期(16世紀)は中国人が多数を占め、明帝国の海禁を掻い潜って貿易・略奪を行った。日本の海賊行為として日中関係で問題となり、足利義満は倭寇禁圧に努めた。豊臣秀吉も後期倭寇掃討を朝鮮出兵の口実とした。
- 薩長同盟(さっちょうどうめい) – 1866年1月、長州藩と薩摩藩が結んだ秘密軍事同盟。仲介は坂本龍馬・中岡慎太郎ら土佐浪士。薩摩の西郷隆盛・小松帯刀、長州の木戸孝允らが京都で会談し、幕府打倒と御所守護で協力することで合意。これにより倒幕戦線が強化され、戊辰戦争勝利に繋がった。
- GHQ(ジーエイチキュー) – 連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters)。第二次大戦後、日本占領を統括した米軍主体の司令部。最高司令官マッカーサーの下、東京・有楽町の第一生命ビルに設置され、5年8ヶ月にわたり日本政府に指令を発した。憲法改正・農地改革・財閥解体など戦後改革を主導した。
- GHQ草案(ジーエイチキューそうあん) – 1946年2月13日にGHQが日本政府へ提示した新憲法草案。日本政府案(松本案)の不徹底さを見てGHQ民政局が起草。象徴天皇制、戦争放棄、基本的人権尊重など日本国憲法の骨子が盛り込まれた。この草案を元に日本側で修正・審議し、帝国議会で可決されたのが日本国憲法である。
- GHQ焚書(ジーエイチキューふんしょ) – GHQによる占領期の出版物禁止措置。戦前・戦中の軍国主義的・超国家主義的書籍を没収し焼却させた。リストには約7000点が挙げられ、学校や図書館から消えた(戦史、思想書など)。検閲と並ぶ言論統制策だったが、民主化と矛盾との批判もある。
- TPP(ティーピーピー) – 環太平洋パートナーシップ協定(Trans-Pacific Partnership)。環太平洋地域の自由貿易協定。日本は2013年交渉参加、2016年署名したが米国離脱で発効せず、11カ国版CPTPPとして2018年発効。農産品など関税撤廃や知財・投資ルールを含む包括協定で、日本は貿易立国戦略として参加。国内では農業への影響など議論になった。
- Womenomics(ウーマノミクス) – 「女性(Women)+経済(Economics)」の造語。女性の活躍が経済成長につながるとの考え方。特に安倍政権下で女性就労促進策を指すキーワードとして使われた。政府は「女性が輝く社会」を掲げ、企業役員への女性登用目標、待機児童対策などを推進した。
日本の歴史|縄文から令和まで全時代を網羅した決定版の歴史総合ガイド
要約 日本の歴史は、旧石器時代から現代の令和まで連綿と続く壮大な物語です。縄文時代の狩猟採集文化から弥生時代の稲作導入による社会変革、古墳時代の大王(おおきみ)による統合、飛鳥・奈良時代の中央集権国家成立と仏教公伝、平安時代の貴族文化の爛熟、鎌倉幕府に始まる武士政権の興隆、戦国の動乱と安土桃山時代の天下統一、徳川幕府による江戸時代の長期平和と鎖国政策、そして明治維新による近代国家への転換、大正デモクラシーや昭和の戦争と復興、高度経済成長を経て平成・令和の現代に至るまで、それぞれの時代が固有の政治・社会・文 ...
論語とは何か:構成(20篇)・主要概念・名句の現代的意義
要約 『論語』 – 孔子(こうし、Confucius)と弟子たちの言行録。孔子没後、弟子たちが編纂したと伝えられる。 構成 – 全20篇(上論10篇・下論10篇)から成り、春秋末期~戦国時代に成立し、漢代半ばに現行の形が整った。 歴史的展開 – 漢代には五経の注釈的位置づけから始まり、宋代に四書の一つとして重視された。 主要概念 – 仁・礼・義・智・信・孝などの徳目と、理想的人格である君子像が語録全篇にわたり強調される。 現代的価値 – 『論語』の名言は教育・リーダーシップ・倫理観に通じ、自己修養や組織運 ...
小・中学校の「国語」完全ガイド|国語って何を学ぶ?1年で伸びる超やさしい解説
国語科のねらい:日常で使う日本語を正しく理解し、自分の考えを適切に表現する力を育てます。言葉への気付き(※「言葉による見方・考え方」)を通じて、思考力や想像力も鍛えます。 小学校:1・2年生でひらがな・カタカナと漢字の基礎、音読や会話の基本を学習。3・4年生で段落構成や辞書の使い方、毛筆書写の開始。5・6年生で要旨(文章の大事な考え)を把握して要約し、敬語や古典に親しみます。 中学校:話す・聞く/書く/読むの3分野で言語活動を深化。語彙・文法・漢字・敬語などの言語事項を体系的に学び、俳句・古文など伝統的な ...
村上海賊(村上水軍)|瀬戸内を制した戦国の海上勢力
村上海賊(むらかみかいぞく、村上水軍)は、中世~戦国時代の瀬戸内海・芸予諸島一帯で活動した海賊衆です。その規模は宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と記すほど強大で、能島・来島・因島の三島村上氏を中心に海上権益を掌握しました。私掠や略奪だけを生業とする無法者とは異なり、独自の掟(ルール)に基づいて航路の安全を保障し、交易や流通の秩序維持にも貢献した「守る海賊」だった点が特徴です。本記事では、村上海賊の起源から三家の役割、主要な合戦(厳島の戦い・木津川口の戦い)、豊臣秀吉の海賊停止令による終焉、そして ...
小・中学校の「社会」完全ガイド|学年別・年間の学びをやさしく解説
要点まとめ 社会科の目的:私たちの暮らす社会について学び、国の国土や歴史への理解と愛着を育てる科目です。平和で民主的な社会の担い手となるために必要な力(公民的資質)を養うことがねらいです。 小学校社会(3〜6年):身近な地域や市区町村、都道府県、日本全体の国土・産業、そして歴史や政治の初歩を学びます。学年が上がるにつれて学ぶ範囲が広がり、6年生で日本の歴史と政治の基本を学びます。 中学校社会(地理・歴史・公民):地理で世界と日本の地域環境、歴史で原始から現代までの日本史と世界との関わり、公民で政治のしくみ ...
参考文献リスト
[1] 北海道・北東北の縄文遺跡群キッズサイト『縄文時代ってどんな時代?』(公益財団法人北海道埋蔵文化財センター)jomon-japan.jpjomon-japan.jp(2025年8月23日閲覧)
[2] 国立歴史民俗博物館 子どもれきはく『第1展示室 先史・古代』案内ページrekihaku.ac.jprekihaku.ac.jp(2025年8月23日閲覧)
[3] 国立歴史民俗博物館 子どもれきはく『第2展示室 中世』案内ページrekihaku.ac.jprekihaku.ac.jp(2025年8月23日閲覧)
[4] 国立歴史民俗博物館 子どもれきはく『第3展示室 近世』案内ページrekihaku.ac.jprekihaku.ac.jp(2025年8月23日閲覧)
[5] 国立歴史民俗博物館 子どもれきはく『第5展示室 近代』案内ページrekihaku.ac.jprekihaku.ac.jp(2025年8月23日閲覧)
[6] 国立歴史民俗博物館 子どもれきはく『第6展示室 現代』案内ページrekihaku.ac.jprekihaku.ac.jp(2025年8月23日閲覧)
[7] 国立公文書館デジタルアーカイブ『民撰議院設立建白書』解説digital.archives.go.jp(2025年8月23日閲覧)
[8] 国立公文書館デジタルアーカイブ『日本国憲法』解説digital.archives.go.jpdigital.archives.go.jp(2025年8月23日閲覧)
[9] 国立国会図書館『年表|史料にみる日本の近代』主要年表(第2章~第3章)ndl.go.jpndl.go.jp(2025年8月23日閲覧)
[10] アジア歴史資料センター『大正デモクラシー ~吉野作造とその時代~』(近現代の歴史展示コラム)jacar.go.jpjacar.go.jp(2025年8月23日閲覧)
[11] 三内丸山遺跡(青森県・青森市 公式):所在地・概要。 Tokyo 2020 Games+1
[12] 縄文のビーナス(茅野市 公式):出土地は棚畑遺跡。
[13] 中空土偶(函館市 公式):出土地は著保内野遺跡(国宝)。
[14] 大仙陵古墳(堺市 公式):全長約486m。 Jomon Japan
[15] 有田焼の成立(佐賀県 公式/文化庁):1616年頃の創始。 WikipediaArita Episode 2
[16] 歌舞伎の起源(文化庁・日本芸術文化振興会):1603年頃の出雲阿国。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)
[17] 公事方御定書(国立国会図書館):1742年。
[18] 金本位制導入(日本銀行貨幣博物館):1897年採用。 1616 / arita japan
[19] 富本銭(奈良文化財研究所):日本最古の貨幣。 Japan Heritage
[20] 明石原人(東大総合研究博物館/兵庫県考古博):標本焼失・年代未確定。 UMDB兵庫県立 考古博物館
[21] 広開土王碑「辛卯年=391年」記述(山口県文書館):碑文の該当箇所。 山口県文書館
[22] 東京2020 観客方針(組織委・政府):原則無観客の公式文。 Bank of Japan
[23] 自衛隊の初の海外実任務(防衛研究所):1991年・ペルシャ湾掃海。 NIDS
日本の歴史|縄文から令和まで全時代を網羅した決定版の歴史総合ガイド
要約 日本の歴史は、旧石器時代から現代の令和まで連綿と続く壮大な物語です。縄文時代の狩猟採集文化から弥生時代の稲作導入による社会変革、古墳時代の大王(おおきみ)による統合、飛鳥・奈良時代の中央集権国家成立と仏教公伝、平安時代の貴族文化の爛熟、鎌倉幕府に始まる武士政権の興隆、戦国の動乱と安土桃山時代の天下統一、徳川幕府による江戸時代の長期平和と鎖国政策、そして明治維新による近代国家への転換、大正デモクラシーや昭和の戦争と復興、高度経済成長を経て平成・令和の現代に至るまで、それぞれの時代が固有の政治・社会・文 ...
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村上海賊(村上水軍)|瀬戸内を制した戦国の海上勢力
村上海賊(むらかみかいぞく、村上水軍)は、中世~戦国時代の瀬戸内海・芸予諸島一帯で活動した海賊衆です。その規模は宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と記すほど強大で、能島・来島・因島の三島村上氏を中心に海上権益を掌握しました。私掠や略奪だけを生業とする無法者とは異なり、独自の掟(ルール)に基づいて航路の安全を保障し、交易や流通の秩序維持にも貢献した「守る海賊」だった点が特徴です。本記事では、村上海賊の起源から三家の役割、主要な合戦(厳島の戦い・木津川口の戦い)、豊臣秀吉の海賊停止令による終焉、そして ...
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要点まとめ 社会科の目的:私たちの暮らす社会について学び、国の国土や歴史への理解と愛着を育てる科目です。平和で民主的な社会の担い手となるために必要な力(公民的資質)を養うことがねらいです。 小学校社会(3〜6年):身近な地域や市区町村、都道府県、日本全体の国土・産業、そして歴史や政治の初歩を学びます。学年が上がるにつれて学ぶ範囲が広がり、6年生で日本の歴史と政治の基本を学びます。 中学校社会(地理・歴史・公民):地理で世界と日本の地域環境、歴史で原始から現代までの日本史と世界との関わり、公民で政治のしくみ ...